第一章 創造原理

第一節 神の二性性相と被造世界

第二節 万有原力と授受作用および四位基台章

第三節 創造目的

第四節 創造本然の

第五節 被造世界の創造過程とその成長期間

第六節 人間を中心とする無形体世界と有形体世界

 

人間は長い史の期間にわたって、人生と宇宙にする根本問題を解決するために苦悶してきた。けれども、今日に至るまで、この問題にして納得のいく解答を我えてくれた人はまだ一人もいない。それは本、人間や宇宙がいかに創造されたかという究極の原理を知らなかったからである。さらに、我にはもっと根本的な先決問題がっている。それは、結果的な存在にすることではなく、原因的な存在にする問題である。ゆえに、人生と宇宙にする問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。創造原理はこのような根本的な問題を、にわたって扱っている。

 

第一節 神の二性性相と被造世界

(一)神の二性性相
(二)神と被造世界との

 

(一)神の二性性相
無形にいます神の神性を、我はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一20)と記している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
今我は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体のにおいてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。これについて例をげてみれば、今日、すべての物質の究極的構成要素といわれている素粒子は、みな、陽性、陰性、または陽性と陰性の中和による中性をびている。これらが二性性相の相係を結ぶことによって、原子を形成するのである。
さらに、原子も、陽性または陰性をびるようになるが、これらの二性性相が相係を結ぶことによって、物質の分子を形成するのである。このように形成された物質は、また、互いに二性性相の相係によって植物または動物に吸されて、それらの養となるのである。
さらに、すべての植物は各雄しべと雌しべとによって存するし、また、すべての動物は各雄と雌とによって繁殖、生存するのである。人間についての例を見ても、神は男性のアダムを創造されてのち、「人がひとりでいるのは良くない」(創二18)と言われ、その象として女性のエバを創造なさったあと、初めて「はなはだ良(善)かった」(創一31)と言われたのである。さらに、あたかも、電離した陽イオンや陰イオンが、各陽子と電子との結合によって形成されているように、雄しべや雌しべ、あるいは雄や雌もまた、各それ自体の部で、陽性と陰性の二性性相の相係を結ぶことによって、初めて存在することができるのである。したがって、人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各潜在しているのである。そればかりでなく、森羅万象の存在相が、表裏、外、前後、左右、高低、弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北などのように、すべて相的であるのも、あらゆる被造物が二性性相の相係によって、互いに存在できるように創造されているからである。
以上の記述によって、我はすべての存在が、陽性と陰性との二性性相による相係によって存在を保ち得ているという事を明らかにした。さらに、はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない性が、そのごとくに現れたものである。したがって、性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形と名づける。ところで、性相と形とは、同一なる存在の相的な面のかたちを言い表しており、形は第二の性相であるともいえるので、これらを合して、二性性相とするのである。
これにする例として、人間について調べてみることにしよう。人間は体という外形と心という性とからできている。そして、見える体は見えないその心に似ているのである。すなわち、心があるかたちをもっているので、その心に似ている体も、あるかたちをもつようになるのである。相や手相など、外貌から、見えないその心や運命を判することができるという根もここにある。それゆえ、心を性相といい、体を形するのである。ここで、心と体とは、同一なる人間の相面のかたちをいうのであって、体は第二の心であるということもできるので、これらを合して二性性相であるという。これによって、あらゆる存在が性相と形による二性性相の相係によって存在しているという事を、我は知るようになった。
それでは、性相と形とは、お互いにいかなる係をもっているのであろうか。無形の的な性相が原因となって、それが主体的な立場にあるので、その形は有形の外的な結果となり、その象の立場に立つようになる。したがってこの者はお互いに、的なものと外的なもの、原因的なものと結果的なもの、主体的なものと象的なもの、的なものと的なものとの相係をもつようになるのである。これにする例として、再び人間を取りあげてみることにしよう。心と体は、各性相と形に該するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ生を維持するのである。したがって、心と体とは、外、原因と結果、主体と象、などの相係をもっているということができるのである。
このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的をもつ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生をむようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各結合しようとする心があるからであるのと同陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各その分子形成の目的を指向するある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各その原子形成の目的を指向する性相的な部分があるからである。
また、今日の科によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギから成り立っているという。それゆえ、そのエネルギが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギ自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。更に一進んで、このように性相と形とを備えているそのエネルギを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我は追求せざるを得なくなるのである。この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我は神と呼び、この主体的な性相と形のことを、神の本性相と本形というのである。は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見られる事を追求することによって、神は本性相と本形の二性性相の中和的主体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。
に述べたように、存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相係によって存在するという事が明らかにされた。それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相係によって存在せざるを得ないということは、然の結論だといわなければならない。創世記一章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。
それでは、性相と形の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる係をもっているのだろうか。本、神の本性相と本形は、各本陽性と本陰性の相係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各本性相と本形性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各性相と形との係と同一なる係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、外、原因と結果、主体と象、またはとの相係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その象としての女性であるエバを創造されたと記してある理由もここにあるのである(創二22)。我はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各男性と女性とするのである。
神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形である(創一27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形的な女性格象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント一一章7節に、「男は、神のかたちであり光である」と記されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した容を要約すれば、神は本性相と本形の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界にしては、性相的な男性格主体としていまし給うという事を知ることができる。

(二)神と被造世界との
以上の論述によって、被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た体に分立された、神の象であることが分かった。このような象を、我は個性理体とする。人間は神の形象的な象であるので、形象的個性理体といい、人間以外の被造物は、象的な象であるために、それらを象的個性理体という。
個性理体は、このように神の二性性相に似た体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相的男性に似た陽性の体と、その本形的女性に似た陰性の体とに分立される。さらに、このように分立された個性理体は、すべて神の象ともなるので、それらは各自、神の本性相と本形に似て、それ自体のに性相と形の二性性相を備えるようになり、それにつれて、陽性と陰性の二性性相を、共に備えるようになる。
ここにおいて、二性性相を中心として見た神と被造世界との係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象的または形象的な体として分立された、個性理体から構成されている神の象である。すなわち、万物は神の二性性相が象的な体として分立された象であり、人間はそれが形象的な体として分立された象である。それゆえ、神と被造世界とは、性相と形との係と同じく、外、原因と結果、主体と象、など、二性性相の相的な係をもっているのである。
今、我は創造原理に立脚して、東洋哲の中心である易の根本について調べてみることにしよう。易では、宇宙の根本は太極(無極)であり、その太極から陰陽が、陰陽から木火土金水の五行が、五行から万物が生成されたと主張している。そして、陰陽を道とし(一陰一陽之謂道)、その道は、すなわちみ言(道也者言也)であるといった。この容を合すれば、太極から陰陽、すなわちみ言が、このみ言から万物が生成されたという意味となる。したがって、太極は、すべての存在の第一原因として、陰陽の統一的核心であり、その中和的主体であることを意味するのである。
このようにして、ヨハネ福音書一章1節から3節に記されているように、み言はすなわち神であり、このみ言から万物が創造されたというその容と、これとを照してみれば、陰陽の中和的な主体であるその太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものであるということを、知ることができるのである。
創造原理を見ても、み言が二性性相から成り立っているがゆえに、そのみ言から創造された被造物も二性性相からなるものでなければならない。したがって、陰陽が、すなわち「み言」であるという易の主張は妥である。
しかしながら、に陰陽を中心として存在界を察することによって、それらが、すべて性相と形とを備えているという事を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本、本性相と本形とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。したがって、その太極が人格的な神であるという事しては知ることができなかったのである。
ここにおいて、今我は、易による東洋哲の根本も、結局、創造原理によってのみ解明せられるという事が分かった。そうして、近、漢医学が漸次その威をしていくようになったのも、それが陰陽を中心とする創造原理的根に立脚しているからだということを知ることができるのである。
0

 

第二節万有原力と授受作用および四位基台

(一)万有原力
(二)授受作用
(三)正分合作用による三象目的を完成した四位基台
(四)神の遍在性
(五)生理体の繁殖
(六)すべての存在が二性性相になっている理由

 

(一)万有原力
神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我は万有原力と呼ぶ。

(二)授受作用
あらゆる存在をつくっている主体と象とが、万有原力により、相基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を生するのである。このような過程を通して、力を生せしめる作用のことを授受作用という。ゆえに、万有原力と授受作用の力とは、各原因的なものと結果的なもの、的なものと外的なもの、主体的なものと象的なものという、相的な係をもっている。したがって、万有原力は的な力であり、授受作用の力は的な力であるともいえるのである。
は、ここにおいて、万有原力と授受作用を中心として、神と被造物にすることを、更に具体的に調べてみることにしよう。神はそれ自体のに永存する二性性相をもっておられるので、これらが万有原力により相基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を揮するようになるのである。
また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相基準を造成して、授受作用をするようになる。また、この授受作用の力により、その二性は相基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって初めて、その個性体は神の象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも揮できるようになるのである。これにする例をげれば、陽子と電子の授受作用によって原子が存在できるし、またその融合作用などを起こすことができるのである。また、陽陰二つのイオンの授受作用によって、分子が存在するようになり、化作用を起こすこともできる。また、陽電と陰電との授受作用によって、電生し、すべての電作用が起こるようになるのである。
植物においては、導管と師管の授受作用によって、植物体の機能を維持し、有機的な生長をするようになる。そして、雄しべと雌しべの授受作用によって繁殖するのである。
動物も雄と雌の授受作用によって、その生体を維持し、また繁殖する。そして動植物間においても、酸素と炭酸ガスの交換、蜜蜂と花の授受作用などによってそれらは共存している。
天体を見ても、太陽と惑星との授受作用によって、太陽系が存在すると同時に、宇宙形成のための運行をなしている。また、地球と月も、授受作用によって一定の軌道を維持しながら、公と自の運行を継続しているのである。
人間の肉体は、動脈、呼吸作用、交感神と副交感神などの授受作用によって、その生を維持しており、その個性体は体と心の授受作用によって存在しながら、その目的のために活動している。
さらに、家庭においては夫と妻が、社においては人間と人間が、家においては政府と民が、もっとく世界においては家と家が、お互いに授受作用をしながら共存している。
古今東西を問わず、いくらい人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に力な作用をなすものであるから、を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体にする象として立ち、その主体と相基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が揮されるのである。我は、この良心の主体を神と呼ぶのである。
落というのは、人間と神との授受の係が切れることによって一体となれず、サタンと授受の係を結び、それと一体となったことを意味する。イエスは神と完全な授受の係を結んで一体となられた、ただ一人のひとり子としてられたお方である。したがって、落した人間が、イエスと完全なる授受の係を結んで一体となれば、創造本性を復して、神と授受作用をすることによって、神と一体となることができるのである。それゆえに、イエスは落人間の仲保となられると同時に、道であり、理であり、また命でもあるのである。したがって、イエスは命をささげ、愛と牲によって、すべてのものをえるためにられたお方であるから、だれでも彼に信仰をささげる者は滅びることのない永遠の命を得るのである(ヨハネ三16)。キリストは、愛と牲により、イエスを中心として、人間同士がお互いに的な授受の回路を回復させることによって、神との的な授受の回路を復させようとする愛の宗である。それゆえに、イエスの訓と行跡とは、みなこの目的のためのものであったのである。例をげれば、イエスは、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ」るであろう(マタイ七1、2)と言われた。また、「何事でも人からしてほしいと望むことは、人にもそのとおりにせよ」(マタイ七12)と語られ、「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ一〇・32)とも言われた。また、イエスは、「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう」(マタイ一〇・41)と言われ、「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でもませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイ一〇・42)とも言われたのである。

(三)正分合作用による三象目的を完成した四位基台
(1)正分合作用
万有原力によって、神自体の二性性相が相基準を造成して授受作用をするようになれば、その授受作用の力は繁殖作用を起こし、神を中心として二性性相の象に分立される。このように分立された主体と象が、再び万有原力により、相基準を造成して授受作用をすれば、これらは再び、合性一体化して、神のまた一つの象となる。このように、神を正として、それより分立して、再び合性一体化する作用を正分合作用とする。

(2)象目的
正分合作用により、正を中心として二性の象に分立された主体と象と、そしてその合性体が、各自主体の立場をとるときには、各々残りのものを象として立たせて、三象基準を造成する。そうして、それらがお互いに授受作用をするようになれば、ここで、その主体を中心として、各象目的を完成するようになる。

(3)四位基台
このように、正分合作用により、正を中心として、二性の象に立たされた主体と象と、またその合性体が各象目的を完成すれば、四位基台を造成するようになる。
四位基台は四の根本であり、またそれは、三象目的を完成した結果であるので、三の根本でもある。四位基台は正分合作用によって、神、夫婦、子女の三段階をもって完成されるのであるから、三段階原則の根本となるのである。四位基台は、その各位を中心として、各象となるので、これらを合すれば十二象となる。ゆえに、十二の根本ともなるのである。また、四位基台は、創造目的を完成した善の根本的な基台でもあるので、神が運行できるすべての存在と、またそれらが存在するための、すべての力の根本的な基台ともなる。したがって、四位基台は、神の永遠なる創造目的となるのである。

(4)四位基台の存在
正分合作用により三象目的をつくって四位基台を完成した存在は、いかなるものでも、円形、または球形運動をなして、立体として存在する。今、我はその理由を調べてみることにしよう。正分合作用により神の二性性相が、各その象に分立された主体と象において、その象が主体に対応して相基準を造成すれば、その象は主体を中心としてお互いに授ける力(遠心力)と、受ける力(求心力)とを交換しあって授受作用をするようになる。このように、主体と象とが授受作用をするようになれば、その象は主体を中心として互いに回して、円形運動をするようになるから合性一体化する。また、これと同一なる原理によって、その主体は神の象となり、神を中心として回して神と合性一体化し、また、その象が、このような主体と合性一体化するようになるとき、初めてその合性体は、神の二性性相に似た象となる。このように、その象は、その主体と合性一体化することによって、初めて神の象となることができるのである。
そうして、この象における主体と象も、これまた、各二性性相からできているので、それらも同一の授受作用の原理によって、各自円形運動をしているのである。この象は、このように、各自絶え間のない運動をしている主体と象の授受作用によって、円形運動をするのであるから、その円形運動は、この運動を起こしているその主体と象自体の特殊な運動相により、場合によっては、同一の平面上の軌道でのみ起こることもあるが、一般的には、その主体を中心として、絶え間なくその円形運動の軌道の角度を異にしながら回するので、この運動はやがて球形運動を起こすようになるのである。したがって、四位基台を完成した存在は、みな円形、または球形運動をするようになるので、その存在相は立体とならざるを得ない。
これにする例として、太陽系をげてみることにしよう。太陽を主体とするすべての惑星は、太陽の象となり、それと相基準を造成して、太陽を中心として、それと対応して、遠心力と求心力による授受作用をするがゆえに、それらはみな、公の円形運動をするようになる。このような円形運動をする太陽と惑星などは、合性一体化して太陽系をつくるのである。しかるに、二性性相の複合体である地球が自するだけでなく、太陽や、太陽を中心とした他の惑星なども、また二性性相の複合体であるので、絶え間なく自している。したがって、このように自している太陽と惑星などの授受作用による太陽系の円形運動は、常に同一の平面上の軌道においてのみ起こるのではなく、太陽を中心として、絶えずその軌道の角度をえながら回するので、太陽系は球形運動をするようになり、立体として存在するのである。このように、すべての天体は円形、または球形運動によって立体として存在する。このような無の天体が互いに授受作用をすることによって、合性一体化されてつくられる宇宙も、やはり同じ原理により球形運動をすることによって、立体として存在するのである。
原子を形成している電子が、陽子と相基準を造成して、陽子を中心として授受作用をするようになれば、それらは円形運動を起こすことにより合性一体化し、原子を形成するようになる。このように、陽子と電子も各二性性相からなっていて、各自絶え間なく運動をしているので、このような陽子と電子の授受作用による円形運動も、やはり同一の平面上の軌道においてのみ起こるのではなく、陽子を中心として絶え間なくその角度をえながら回するので、この運動はやがて、球形運動にわる。原子もまたこのように球形運動をすることによって立体として存在するようになる。電によって、陽陰二極に現れる磁力線も、同じ原理により、球形運動をするのである。
また、このような例を人間において考えてみることにしよう。体は心の象として、心と相基準をつくって授受作用をするようになれば、体は心を中心として円形運動をすることによって合性一体化する。そうして、心が神の象となり、神を中心として回して、神と合性一体化し、体がこのような心と合性一体化するようになれば、その個体は初めて、神の二性性相に似た象となり、創造目的を完成した人間となるのである。しかるに、体と心も各二性性相からできていて、それ自体も各自絶え間のない運動をしているので、このような体と心の授受作用によって起こる円形運動は、神を中心として、絶えずその角度をえながら回するようになり、球形運動にわる。それゆえに、創造目的を完成した人間は、神を中心として、常に球形運動の生活をする立体的な存在であるので、結局、無形世界までも主管するようになるのである(本章第六節照)。
このように、主体と象が授受作用をする平面的な回路による円形運動が、再び立体的な回路によって球形運動にわることによって、創造の造化の妙味が展開されるのである。すなわち、その回路の距離、相、態、方向、角度、また、それらが各授受する力の速度などの差異によって、千態万象の造化の美が展開されるようになるのである。
すべての存在は、性相と形を備えているので、それらの球形運動にも、性相的なものと形的なものとの二つがある。したがって、その運動の中心にも、性相的な中心と形的な中心とがある。そうして、前者と後者は、性相と形係と、同じ係をもっている。それでは、この球形運動の究極的な中心はいったい何であろうか。神の二性性相の象象として創造された被造物の中心は、人間であり、神の形象的象として創造された人間の中心は神なので、結局、被造世界の球形運動の究極的な中心は神であられる。は、これにすることを、もっと具体的に調べてみることにしよう。
神のすべての象に備えられている主体と象において、その象の中心がその主体にあるので、主体と象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三象が相基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。したがって、四位基台の究極的な中心は神である。このように、四位基台を完成した各個の被造物を個性理体という。しかるに、上述したように、この個性理体は、形象的個性理体(人間)と、象的個性理体(人間以外の被造物)とに大別される。被造世界は無の個性理体によって構成されているが、その低級なものから高級なものに至るまで、段階的に秩序整然として連結されている。その中で人間は、最高級の個性理体として存在している。そうして個性理体はすべて球形運動をしており、低級な個性理体は、より高級な個性理体の象となるので、この象の球形運動の中心は、いま一つ高級位にあってその主体となっている個性理体なのである。このように、多くの象的個性理体の中心は、低級なものから、より高級なものへと、だんだん上位に連結され、その最終的な中心は、形象的個性理体である人間となるのである。
このことについてもう少し詳しく考えてみることにしよう。今日の科は、物質の最低位を素粒子と見なしているが、素粒子はエネルギからなっている。ここにおいて、物質世界を構成している各段階の個性理体の存在目的を、次元的に察してみると、エネルギは素粒子の形成のために、素粒子は原子の構成のために、原子は分子の構成のために、分子は物質の形成のために、すべての物質は宇宙森羅万象の個体を構成するために、各存在していることを知ることができる。それゆえに、エネルギの運動の目的は素粒子に、素粒子の目的は原子に、原子の目的は分子に、分子の目的は物質に、すべての物質の目的は宇宙形成にあるのである。それでは、宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。それは、まさしく人間である。ゆえに、神は人間を創造されたのち、被造世界を主管せよ(創一28)と言われた。もしも、被造世界に人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう。つまり、博物館のすべての陳列品は、それらを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいて初めて、史的な遺物として存在し得るところの因的な係が、それらの間で結ばれ、各その存在の値を表すことができるのである。もしも、そこに、その中心となる人間が存在しないとすれば、それらはいったいいかなる存在意義をもつであろうか。人間を中心とする被造世界の場合も、これと少しもわるところはない。すなわち、人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類することによって初めて、それらはお互いに、合目的的な係を結ぶことができるのである。さらにまた、人間が存在することによって初めて、動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が別でき、それらが人間を中心として、合目的的な係をもつことができるのである。それから物質は人間の肉体に吸されて、その生理的な機能を維持させる要素となり、森羅万象は人間の安な生活環境をつくるための材料となるのである。これらはみな、人間の被造世界にする形的な中心としての係であるが、これ以外にも、また、性相的な中心としての係がある。前者を肉的な係であるというならば、後者は精神的、または的な係である。物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感体となっている。我が自然界の美に陶して、それらと渾然一体の神秘境を体できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。人間は、このように、被造世界の中心として創造されたために、神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。
はまた、他の面において、人間が天宙の中心となるということについて論じてみることにしよう。詳細なことは第六節で述べるけれども、無形と有形の二つの世界を総称して天宙というが、人間はこの天宙を合した体相である。しかるに、に述べたように、天宙を形成しているすべての被造物は、主体と象とに分けられることが分かるのである。
ここにおいて、我は、人間始祖として創造されたアダムがもし完成したならば、彼は被造物のすべての存在が備えている主体的なものを合した体相となり、エバが完成したならば、彼女は被造物すべての存在が備えている象的なるものを合した体相となるという結論を、直ちに得ることができる。神は被造世界を主管するように人間を創造されたので、アダムとエバが共に成長して、アダムは被造物のすべての主体の主管主として完成し、またエバはすべての象の主管主として完成され、彼らが夫婦となって一体となったならば、それがまさしく、主体と象とに構成されている被造世界の全体を主管する中心体となるべきであったのである。
また、人間は天宙の和動の中心として創造されたので、すべての被造物の二性性相の体的な中心体であるところのアダムとエバが、完成されて夫婦になってから、彼らがお互いに和動して一体となったときに、初めて二性性相として創造された全天宙と和動することができるのである。このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、神のみ言が体として完成するので、これが正に理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。それゆえに、被造世界は、このように人間が完成されて、神を中心として夫婦となることによってつくられる四位基台を中心に、合目的的な球形運動をするようになる。しかるに、被造世界は人間の落によってこの中心を失ったので、万物もに切なる思いで、神の子たち、すなわち創造本性を復した人間たちが出現して、その中心となってくれる日を待ち望んでいるのである(ロマ八1922)。

(四)神の遍在性
上述のように、正分合作用によって三象目的を完成した四位基台は、神を中心として球形運動を起こし、神と一体となるので、それは、神が運行できるすべての存在の、また、その存在のためのすべての力の根本的な基台となるということを我は知った。ところで、創造目的を完成した世界においては、神の本性相と本形体となっているすべての個性体は、みな、このように球形運動を起こし、神が運行できる根本的な基台を造成するようになっている。このようにして、神は一切の被造物の中に遍在されるようになるのである。

(五)生理体の繁殖
生理体が存するためには、繁殖しなければならないし、その繁殖は授受作用による正分合作用によってなされる。これにする例をげ れば、植物は花の種子から花の雄しべと雌しべができ、その雄しべと雌しべの授受作用によって、再び多くの種子を結んで繁殖する。動物においてはその雄と雌 が成長して、お互いに授受作用をして子を産むことによって繁殖する。また、動植物のすべての細胞分裂も授受作用によって起こるようになる。
ある目的を立てて、心が望むとおりに体が実践して、体と心とが授受作用をするようになれば、同志ができ、同志たちがお互いに良く授け、良く受ければ、もっと多くの同志を繁殖する。このような面から見れば、被造世界は、無形の神の本性相と本形が、その創造目的を中心として、授受作用をすることによって、それが体的に展開されて繁殖したものであると見ることができる。

(六)すべての存在が二性性相になっている理由
いかなるものでも、存在するためには、必ずある力を必要とするようになるが、その力は授受作用によってのみ起こる。けれども、いかなるものも単独で授受することはできないので、それが存在するための力を起こすには、必ず授受作用ができる主体と象との二性性相として存在しなければならない。
また直線上の運動においてはいつかは終わりがこなければならないので、このような直線運動をしている存在は永遠性をもつことができない。それゆえに、いかなるものでも、永遠性をもつためには回しなければならないし、回するためには主体と象が授受作用をしなければならない。それゆえに、神も永遠性をもつために、二性性相としていまし給うのであるし、神の永遠なる象である被造物も永遠性をもつためには、神に似た二性性相として存在しなければならない。そして、時間と周期的な輪廻とによって、永遠性を維持しているのである。

 

第三節 創造目的

(一)被造世界を創造された目的
(二)神の喜びのための善の

 

(一)被造世界を創造された目的
被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記されている創世記のみ言を見れば(創一4~31)、神は自ら創造された被造物が、善の象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。それでは、被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形のとおりに、喜怒哀の感性をもつ人間を創造され、それを見てしもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一28)と言われたのである。この三大祝福のみ言にって、人間が神の、すなわち天をつくって喜ぶとき、神もそれを御になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。
それでは、神の三大祝福は、いかにして完成されるのだろうか。それは、創造の根本基台である四位基台が成就された基盤の上でのみ成就されるのである。それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、しまれるところにあったのである。
それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。また、すべての存在は二重目的をもつ連体である。に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形的なものとの二つがあって、それらの係は性相と形との係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、的なものと外的なもの、主体的なものと象的なものという係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連しあっている一つの大な有機体なのである。

(二)神の喜びのための善の
神の創造目的にする問題を詳細に知るためには、我がどんな態にいるときに、喜びが生ずるかという問題を先に知らなければならない。喜びは自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、体であろうと、自己の性相と形のとおりに展開された象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形とを相的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例をげれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として体化して象となったとき、その象からくる刺激によって、自己の性相と形とを相的に感じて初めて生ずるようになる。ここで、構想自体が象として立つときには、それからくる刺激は体的なものではないために、それによる喜びも体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形を相的に感ずるとき、初めて喜びにたされるということを知ることができる。
四位基台の基盤の上で、三大祝福による天現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる世界であるということを、に我明してきた。そこで、これがいかにして神の喜びのための善の象となるかを調べてみることにしよう。
神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリント16)、神と一体となるので(ヨハネ一四20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨にって生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の象となり、したがって、神の象となる。ここで、その心と神は、このような象からくる刺激によって、それ自体の性相と形とを相的に感ずることができるので、喜びにちることができるのである。そうであるから、個性を完成した人間は、神の喜怒哀を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行をすることができなくなるので、絶落することがない。
つぎに、神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各個性を完成した象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。このように、神を中心として四位基台をつくった家庭や社は、個性を完成した人間一人の容貌に似るようになるので、これは、神を中心とした人間の象であり、したがって、また神の象ともなるのである。それゆえに、人間や神は、このような家庭や社から、それ自体の性相と形とを相的に感ずるようになり、喜びにちることができる。したがって、人間が神の第二祝福を完成すれば、それもまた神の喜びのための善の象となるのである。
そのつぎに、人間が神の第三祝福を完成すれば、それがどうして神の喜びのための善の象となるかを調べてみることにしよう。この問題を解明するためには、まず性相と形とから見た人間と万物世界との係を知らなければならない。
神は人間を創造する前に、未において創造される人間の性相と形とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を合した体相となるのである。人間を小宇宙という理由は、すなわちここにある。
神は下等動物から、次第に機能の複な高等動物を創造されて、最後に、最高級の機能をもった存在として人間を創造された。ゆえに、人間にはすべての動物の構造と要素と素性とが、ことごとく備えられているのである。人間がいかなる動物のでも出すことができるのは、いかなる動物の発声器の性能をも備えているということを立証するものである。また、人間はいかなる被造物の形や線の美もみな備えているので、家は人間の裸体をモデルとして法を磨するのである。
人間と植物とを比べてみても、その構造と機能には差異があるが、しかしすべてが細胞からできている点においては同一である。それから、人間には植物の構造と要素とその素性とが、ことごとく備えられている。すなわち、植物の葉はその容貌や機能から見て、人間の肺に該する。葉が大中から炭酸ガスを吸するように、肺も酸素を吸する。植物の幹と枝は人間の心に該するもので、養素を全体に供給する。そして植物の根は人間の胃腸に該するもので、養素を取する。さらにまた、植物の導管と師管の形態と機能とは、人間の動脈と脈に該するのである。
また、人間は水と土と空で創造されたので、物質の要素をももっている。地球も人体構造の表示体になっている。地球には植物に覆われた地があり、地層の中には地下泉があって、その下に岩層に覆われた熔岩層があるが、これは、ちょうど、産毛で覆われた皮膚があって、筋肉の中には血管があり、その下には骨格と、骨格に覆われた骨がある人間の構造とよく似ている。
神の第三祝福は、万物世界にする人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的象である人間と、その象象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない(本章第五節(二)照)。
に論じたように、万物世界はどこまでも、人間の性相と形とを体として展開したその象である。それゆえに、神を中心とする人間は、その象である万物世界からくる刺激によって、自体の性相と形とを相的に感ずることができるために、喜ぶことができるのである。そして、神はこのように、人間と万物世界とが合性一体化することによって、神の第三象である被造世界によって、神自体の本性相と本形する刺激的な感性を相的に感じて、喜びに浸ることができる。人間がこのような神の第三祝福を完成すれば、それも神の喜びのための、また一つの善の象となるのである。このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に現されたはずであって、このような世界をして、我は地上天という。のちに詳細に明するが、元、人間は地上天で生活して、肉体をぐと同時に、界で自動的に天上天の生活をするように創造されているのである。
明したすべての事合してみると、は神の本性相と本形のとおりに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界であるということを、我は知ることができる。人間において、その心の命令が中を通じて、その四肢五体に達されることにより、その人体が一つの目的を指向して動じずるように、においては、神の命令が人類のの父母を通して、すべての子女たちに達されることにより、みな一つの目的に向かって動じずるようになるのである。

 

第四節 創造本然の

(一)創造本然の値の決定とその値の基準
(二)創造本然の知情意と創造本然の美善
(三)愛と美、善と、義と不義

 

(一)創造本然の値の決定とその値の基準
創造本然の値はいかにして決定されるのだろうか。ある象がもっている値は、その象が存在する目的と、それにする人間主体の欲求との相係によって決定されるというのが、我の今まで考えてきた一般的なであった。しかし、ある個性体の創造本然の値は、それ自体のに絶的なものとして在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある象として存在する目的と、それにする人間主体の創造本然の値追求欲が相係を結ぶことによって決定される。したがって、ある象が創造本然の値をもつためには、それが人間主体との授受作用により合性一体化して、神の第三象になり、創造本然の四位基台をつくらなければならない。では、創造本然の値の基準はどこにあるのだろうか。創造本然の値は、ある象と人間主体とが、神を中心として、創造本然の四位基台を完成するときに決定されるが、この四位基台の中心が絶者であられる神であるから、この値の基準も絶者なる神である。それゆえに、絶者であられる神を基準として、これにして相的に決定されるある象の創造本然の値もまた絶的でないはずがない。
例をげれば、花の美はいかにして決定されるのだろうか。それは、神がその花を創造された目的と、その花の美を求める、人間の美にする創造本然の追求欲が合致するとき、言い換えれば、神の創造理想に立脚した人間の美にする追求欲が、その花からくる情的な刺激によってたされ、人間が完全な喜びを感ずるとき、その創造本然の美が決定される。このように、創造目的を中心として、その花から感ずる喜びが完全であるとき、その花の美は絶的である。ここに、その美の追求欲というのは、人間自身がその性相と形とを、その象を通じて相的に感じようとする欲望をいうのである。また、その花の創造目的と、その花にする人間の値追求欲とが合致する瞬間、その象と主体は渾然一体の態をなすようになる。それゆえに、ある存在が創造本然の値をもつためには、神を中心として、それとそれにする人間主体とが渾然一体の態となって、神の第三象となり、四位基台をつくらなければならない。そうすれば、的な値の基準である神にして相的に決定された万物の創造本然の値も絶的なものとなるのである。今まで、ある象の値が絶的なものとならず、相的であったのは、その象と、それにする落人間との間になされる授受の係が、神の創造理想を中心としたものでなく、サタン的な目的と欲望を中心としたものであったからである。

(二)創造本然の知情意と創造本然の美善
人間の心は、その作用において、知情意の三機能を揮する。そうして人間の肉身は、その心の命令に感して行動する。これを見ると、その肉身は心、すなわち知情意の感体として、その行動は美善の値を追求するものとして表れるのである。神はどこまでも、人間の心の主体であるので、知情意の主体でもある。したがって、人間は創造本然の現欲によって、心で神の本然の知情意に感し、体でこれを行動することによって、初めてその行動は、創造本然の美善の値を表すようになるのである。

(三)愛と美、善と、義と不義
(1)愛と美
神から分立された二性の体が、相基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三象として合性一体化するために、主体が象に授ける情的な力を愛といい、象が主体にえる情的な力を美という。ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は的である。
神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の象となるのである。しかし、主体と象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が包されるようになる。なぜかといえば、主体と象とが互いに回して一体となれば、主体も象の立場に、象も主体の立場に立つことができるからである。係において、目上の人の愛にして目下の人がささげる美を忠といい、父母の愛にして子女がささげる美を孝といい、また夫の愛にして妻がささげる美を烈という。愛と美の目的は、神から体として分立された性が、愛と美を授受することによって合性一体化して、神の第三象となることによって、四位基台を造成して創造目的を達成するところにある。
つぎに、神の愛とは何であるかを調べてみることにしよう。神を中心としてその二性性相の象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一象の愛)、夫婦の愛(第二象の愛)、子女の愛(第三象の愛)など、創造本然の三象の愛を体恤することによってのみ、三象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。したがって、四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の象であり、また、完全な喜びの象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。

(2)善と
主体と象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行とか、その行の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行をなすこと、または、その行の結果をというのである。
例をげれば、神を中心として心と体が、主体と象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性一体化し、個人的な四位基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行を善という。そして、神を中心としてアダムとエバが、主体と象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行を善という。また、個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その象の立場に立たしめ、それと合性一体化して神の第三象をつくり、主管的な四位基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行を善という。サタンを中心として四位基台を造成することによって上記のような神の三大祝福に反の目的を成し遂げる行、または、その行の結果をというのである。

(3)義と不義
善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい、(サタン)の目的を成就していく過程において、そのの目的に役立つ生活的要素を不義という。それゆえに、善の目的を成就するためには、必然的に、義の生活を必要とするようになるので、義が善の目的を追求する理由は、すなわちここにある。

 

第五節 被造世界の創造過程とその成長期間

(一)被造世界の創造過程
(二)被造物の成長期間

 

(一)被造世界の創造過程
創世記一章を見れば、天地創造は、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、というところで、光を創造されることから出して、その次には、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられ、その次に、陸と海とを分け、いて、植物をはじめ、魚類、鳥類、ほ乳類、人類などを創造されるのに、六日という期間を要したと記されている。これによって、は被造世界の創造が終わるまで、六日という時間的な過程があったということを知るのである。ここにおいて、我は、聖書に記された創造の過程が、今日、科者たちの究による宇宙の生成過程とほぼ一致するという事を知ることができる。者たちの文によると、宇宙は初めはガス態として、無水時代の混沌と空の中で天体がつくられ、降雨による有水時代になって、水でできたおおぞらが形成され、その次に、火山の噴出によって水の中に陸地が現れて、海と陸地が生成され、次には、下等の植物と動物から始まって、順次に魚類、鳥類、ほ乳類、人類が生成されたといい、地球の年十億年と推算している。今から千年前に記されたこの聖書の天地創造過程が、今日の科者たちの究したものとほぼ一致しているという事を見るとき、我は、この記が神の啓示であることは間違いないということを再確認することができる。
ここにおいて、宇宙は時間性を離れて突然に生成されたものではなく、それが生成されるまでには、相な時間を要したという事を我は知った。したがって、天地創造を完了するまでの六日というのは、際は、日の出と日の回によって計算される六日ではなく、創造過程の六段階の期間を表示したものであることが分かる。

(二)被造物の成長期間
被造世界の創造が終わるまで、六日、すなわち六段階の期間を要したという事は、正に被造世界を構成している各個性体が完成されるに際しても、ある程度の期間が必要であったことを意味する。また、創世記一章にある天地創造にする記を見ても、その日その日の創造が終わるたびごとに、その序を明らかにしているが、この日表示によっても、我被造物の完成にはある期間が必要であったことを知ることができるのである。すなわち、神は初めの日の創造が終わると、「夕となり、また朝となった。第一日である」(創一5)と言われた。夕から夜が過ぎて、次の日の朝になれば、第二日であるにもかかわらず、第一日であると言われたのは、被造物が夜という成長期間をて、朝になって完成したのち、初めて創造目的を完成した被造物として、創造理想を現するための出をするようになるからである。
このように、被造世界で起こるすべての現象は、必ずある程度の時間が過したのち、初めてその結果が現れるようになる。これは被造物が創造されるとき、一定の成長期間をて完成できるように創造されたからである。

(1)成長期間の秩序的三段階
被造世界は神の本性相と本形とが理的な原則によって、体的に展開されたものである。ここにおいて我は、神は理性をもっておられるということを推測できる。またさらに、神は絶者でありながら、相的な二性性相の中和的存在であられるので、三的な存在である。したがって、唯一なる神に似た被造物(創一27)はその存在相やその運動、さらにまたその成長期間がみな三過程を通じて現れるようになる。
したがって、神の創造目的である四位基台は、神、アダムとエバ、そして子女の繁殖という三段階の過程を通じて、初めて完成するようになる。四位基台を造成して円形運動をするには、必ず正分合の三段階の作用をて、三象目的をつくり、三点を通過しなければならない。ゆえに、一つの物体が定着するには、最少限三点で支持されなければならない。またこのように、すべての被造物が完成するにたっても、その成長期間は、蘇生期、長成期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる。では、自然界で三として現れている例をげてみることにしよう。自然界は動物と植物と物からなり、物質は体と液体と固体の三相を表している。植物は根と幹と葉の三部分からなり、動物は頭部と胴部と四肢の三部分からなっている。
はまた、聖書に見られる三の例をげてみることにしよう。人間は成長期間の三段階を完成できずに落し、創造目的を完成できなかったので、この目的を再び完成するにたっても、この三段階を通過しなければならない。それゆえ、復帰摂理は三を求める理をされた。したがって、聖書には、三を中心とした理の記が多い。父、子、聖の三位、園の三層、ルシエル、ガブリエル、ミカエルの三天使、箱舟の三層、ノアの洪水のときの三次にわたる鳩、アブラハムの三種の供え物、イサクの祭の三日間、モセの三日間の闇と災い、出エジプト路程のための三日間のサタン分立期間、カナン復のための三次にわたる四十年期間、ヨルダンを渡る前のヨシュアを中心とするサタン分立の三日期間、イエスの三十年私生涯と三年の公生涯、三人の東方博士、彼らの三つの貢ぎ物、三弟子、三大試練、ゲッセマネでの三度の祈り、ペテロのイエスにする三度の否認、イエスの死の前の三時間の闇と三日目の復活など、その例は多くある。
それでは、人間始祖はいつ落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において落したのである。人間がもし、完成したのちに落したとすれば、我は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。
創世記二章17節を見れば、神はアダムとエバに、善を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずにむこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。万物世界が六日という期間をて完成できるように創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。
そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で落したのだろうか。それは長成期の完成級で落したのであった。これは、人間始祖の落の前後の諸般の事情と、復帰摂史の緯が証するもので、本書の前編と後編を究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。

(2)間接主管
被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管、または原理結果主管するのである。
万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管)を過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担にして、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管)をみな過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干してはならないのである。
このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の限をもつようにするためであった(創一28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。
このように、人間が、自身の責任分担を完遂し、神の創造性を受けぐことによって、天使をはじめ、万物にする主管性をもつようになったとき、初めて完成するようになさるために、神は間接主管をおいて、人間を創造されたのである。それゆえに、落して、このような主管性をもつことができなくなった人間たちにおいても、復原理によって、人間の責任分担を完遂して、サタンをはじめ、万物にする主管性を復するための、間接主管をすべて通過しなくては、創造目的を完成することができないのである。神の救いの理が非常に長い期間を通じて延長してきたのは、復帰摂理を担した中心人物たちが、神も干できないそれ自身の責任分担を遂行するにたって、常に失敗を繰り返してきたからである。
キリストの十字架による救いの恩賜がいくら大きくても、人間自身がその責任分担である信仰を立てなければ、彼らを探し求めてきた救いの理は無せざるを得なくなる。したがって、イエスの十字架による復活の恵沢えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである(ヨハネ三16、エペソ二8、ロマ五1)。

(3)直接主管
直接主管とは何であり、またこれを創造された目的は、どこにあるのだろうか。神を中心として、ある主体と象とが合性一体化して四位基台をつくり、神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して、善の目的を完成することを直接主管という。したがって、直接主管とは直に完成を意味する。このように、直接主管は、あくまでも創造目的を成就するためであるので、これがなくてはならないのである。では、人間にす る神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することに よって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接 主管という。このような人間は、神の心情を体恤し、神のみ旨が完全に分かって、実践するようになるので、あたかも、頭が、命令ならざる命令で四肢五体を動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨のとおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。
つぎに我は、万物世界にする人間の直接主管とはいかなるものであるかを調べてみることにしよう。神を中心として完成した人間が、万物世界を象に立てて合性一体化することによって、四位基台をつくり、神の心情を中心として一体となった人間の意のままに、人間と万物世界とが、愛と美を完全に授受して、善の目的を成し遂げることを万物にする人間の直接主管というのである。

 

第六節 人間を中心とする無形体世界と有形体世界

(一)無形体世界と有形体世界
(二)被造世界における人間の位置
(三)肉身と人体との相

 

(一)無形体世界と有形体世界
被造世界は、神の二性性相に似た人間を標本として創造されたので、あらゆる存在は、心と体からなる人間の基本形に似ないものは一つもない(本章第一節(二)照)。したがって、被造世界には、人間の体のような有形体世界ばかりでなく、その主体たる人間の心のような無形体世界もまたあるのである。これを無形体世界というのは、我の生理的な五官では、それを感することができず、的五官だけでしか感することができないからである。的体によれば、この無形世界は、的な五官により、有形世界と全く同じく感できる在世界なので、この有形、無形の二つの体世界を合したものを、我は天宙と呼ぶ。
心との係がなくては、体の行動があり得ないように、神との係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。したがって、無形世界との係がなくては、有形世界が創造本然の値を表すことはできないのである。ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。また、無形世界がいかなるものであるかを知らなくては、有形世界がいかなるものであるかを完全に知ることはできないのである。それゆえに、無形世界は主体の世界であり、有形世界は象の世界であって、後者は前者の影のようなものである(ヘブル八5)。有形世界で生活した人間が肉身をげば、その人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。

(二)被造世界における人間の位置
第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された(創一28)。ところで被造世界は、神にする的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界にする感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。したがって、人間を創造されるにたって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ的要素で、人体を創造された。貌山上でのイエスの前に、に一六〇〇余年前に亡くなったモセと、九〇〇余年前に亡くなったエリヤが現したとあるが(マタイ一七3)、これらはみな、彼らの人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。
第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と人体が授受作用により合性一体化して、神の象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性一体化して、神の象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空のようなものである。人間はこのように、無形世界(界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、界の事をそのまま反映するようになっている。
第三に、神は人間を、天宙を合した体相として創造された。神はのちに創造なさる人間の性相と形体的な展開として、先に被造世界を創造されたのである。したがって、人体の性相と形体的な展開として、無形世界を創造されたので、人体は無形世界を合した体相である。また肉身の性相と形体的な展開として有形世界を創造されたので、肉身は有形世界を合した体相となるのである。ゆえに、人間は天宙を合した体相となるので、しばしば人間を小宇宙という理由は、ここにあるのである。
ところが、人間が落し、被造世界が自己を主管してくれる主人を失ったので、ロマ書八章19節に、被造物は神の子たち(復された創造本然の人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書八章22節には、被造物が嘆息している事を明らかにしている。
イエスは人体と肉身をもつ完全なアダムとして降臨された方である。したがって、彼は天宙を合した体相であったのである。それゆえに、万物をキリストの足もとにわせたと言われた(コリント一五27)。イエスは落人間が彼を信じ、彼と一体となって、彼と共に完成した人間とならしめるために降臨されたので、救い主であられるのである。

(三)肉身と人体との相
(1)肉身の構成とその機能
肉身は肉心(主体)と肉体(象)の二性性相からなっている。肉心とは肉体をして生存と繁殖と保護などのための生理的な機能を維持できるように導いてくれる作用部分をいうのである。動物における本能性は、正にそれらの肉心に該するものである。肉身が円に成長するためには、陽性の養素である無形の空と光を吸して、陰性の養素である有形の物質を万物から取して、これらが血液を中心として完全な授受作用をしなければならない。
肉身の善行と行にって、人体も善化あるいは化する。これは、肉身から人体にある要素をえるからである。このように、肉身から人体にえられる要素を、我は生力要素という。は平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善って、それに適してできる生力要素が、そのまま人体へと回っていく証である。

(2)人体の構成とその機能
人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形体としての存体である。人体はその肉身と同一の相であり、肉身をいだのちには無形世界(界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体のに、このような永存性をもつ人体があるからである。
この人体は生心(主体)と体(象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される人体の中心部分をいうのである。人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身にえる要素もあり、我はこれを、生要素という。人間が神に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの化を起こすようになるが、これは、その肉身が人体から生要素を受けるからである。人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、人体と肉身との係は、ちょうどと木との係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼し、生心が指向する目的にって、肉身が動くようになれば、肉身は人体から生要素を受けて善化され、それにって、肉身は良い生力要素を人体にえることができて、人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。
生心の要求するものが何であるかをえてくれるのが理である。それゆえに、人間が理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。ところで、生要素と生力要素とは各性相的なものと形的なものとの係をもっている。ゆえに、人においても、その本心が善を指向しているのは、その生要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。このように、人体はどこまでも、地上の肉身生活においてのみ完成できるのである。人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生期の人体を形体といい、長成期の人体を生命体、完成期の人体を生体という。
神を中心として、人体と肉身が完全な授受作用をして合性一体化することにより、四位基台を完成すれば、その人体は生体になるが、このような人体は無形世界のすべての事をそのまま感ずることができる。このように、人体に感じられるすべての的な事は、そのまま肉身に共鳴され、生理的現象として現れるので、人間はすべての的な事を肉身の五官で感じて分かるようになる。体を完成した人間が地上天現して生活したのち、肉身をいで人として行って生活する所が、すなわち天上天である。それゆえに、地上天が先に現したのち、初めて天上天現できるのである。
人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相的な係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤して初めて、肉身をいだのちのその人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。このように、人体のすべての素性は肉身のある間に形成されるので、落人間においては、人体の化は肉身生活の犯罪行に由するもので、同じく、その人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、は地上で善なる生活をしなければならない。したがって、救いの理の第一次的な目的が地上で現されなければならないので、イエスは天の門の鍵を地上のペテロに授けて(マタイ一六19)、地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろうと言われたのである(マタイ一八18)。
でも地獄でも、人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、人体自身が決定するのである。人間は元、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選するようになる。また、人体は肉身を土台にしてのみ成長できるように創造されたので、人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされる。

(3)生心と肉心との係から見た人間の心
生心と肉心との係は、性相と形との係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性一体化すれば、人体と肉身を合性一体化させて、創造目的を指向させる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。人間は落し、神を知ることができなくなるにって、善の絶的な基準も分からなくなったが、上述のように、創造された本性により、人間の心は、常に自分が善であると考えるものを指向する。このような心を良心という。しかし、落人間は善の絶的な基準を知らず、良心の絶的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするにって、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。善を指向する心の性相的な部分を本心といい、その形的な部分を良心という。
それゆえに、人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反して、良心をその本心が指向する方へと引きす作用をする。サタンの拘束を受けている生心と肉心が授受作用をして合性一体化すれば、人間をしてを指向させるまた一つの作用体をつくるが、これを我は邪心という。人間の本心や良心は、この邪心に反し、人間をしてサタンを分立させ、神と相することによって、を退け善を指向するようにさせるのである。