第六章 再臨論

第一節 イエスはいつ再臨されるか

第二節 イエスはいかに再臨されるか

第三節 イエスはどこに再臨されるか

第四節 同時性から見たイエス時と今日

第五節 言語混の原因とその統一の必然性

 

イエスは、再臨するということを明確に言われた(マタイ一六27)。しかし、その日とそのときは、天使もイエスもだれも知らないと言われた(マタイ二四36)。それゆえ、今までイエスがいつ、どのようにして、どこにられるかということにしては、それについて知ろうとすることそれ自体が無謀なことのように考えられてきた。
しかしながら、イエスが繰り返し、「ただ父だけが知っておられる」と言われた事や、アモス書三章7節において、「まことに主なる神はそのしもべである預言者にそのれた事を示さないでは、何事をもなされない」と言われたみ言などを合して考えると、その日、そのときを知っておられる神は、イエスの再臨にするあらゆる秘密を、必ず、ある預言者に知らせてから理されるであろうということを、知ることができる。
それゆえ、イエスは、一方では、「もし目をさましていないなら、わたしは人のようにるであろう」(3)と言われながら、その反面においては、テサロニケ五章4節にあるごとく、光の中にいる人には、人のように不意に襲うことはないであろうとも言われているのである。イエスの初臨の際に起こったことを見ても、イエスは、暗闇の中にいた祭司長たちや律法者たちにしては、事人のようにられたが、光の中にいた洗ヨハネの家庭には、イエスの誕生にすることが前もって知らされたし、また、彼が誕生したときには、東方の博士たち(マタイ二1、2)、シメオン、アンナ、羊飼いたちには、その事を知らせてくださったのである。そしてまた、ルカ福音書二一章34節から36節 にかけて、その再臨の日が、不意にわなのようにあなた方を捕らえるであろうから、絶えず祈りをもってその惑わしを避け、主の前に立つことができるようにし なさいと言われていることを見ても、光の中にいる信徒たちには、その再臨の日のために準備することができるように、あらかじめそのことを知らせてくださる ことは明らかである。
帰摂理路程に現れた例から見ても、神はノアの審判のときや、ソドムとゴモラを滅ぼされるとき、あるいは、メシヤの降臨のときにおいても、常にその事を預言者たちにあらかじめ知らせてから理されたのであった。したがって、神は、イエスの再臨にしても、終末のときには神のをすべての人に注ぐと約束されたように(使徒二17)、光の中にいるすべての信徒たちを通じて、耳と目とをもっている人たちには、必ず見ることができ、聞くことができるように、啓示してくださることは明らかである。

 

 

第一節 イエスはいつ再臨されるか

 

イエスが再臨されるときのことを、我は終末という。ところで、現代がすなわち終末であるということにしては、に前編の人類史の終末論において明らかにした。したがって、我は、現代がとりもなおさず、イエスの再臨なさるときであるということを知ることができるのである。ところで、帰摂史から見れば、イエスは、蕩減復帰摂理時代(約時代)の二〇〇〇年をたのちに降臨されたのである。それゆえ、蕩減復の原則から見れば、前時代を体的な同時性をもって蕩減復する再蕩減復帰摂理時代(新約時代)の二〇〇〇年が終わるころに、イエスが再臨されるであろうということを、我は知ることができるのである。
さらに、第一次世界大する項目のところで詳しく明したように、第一次大でドイツが敗することにより、サタン側のアダム型の人物であるカイゼルが滅び、サタン側の再臨主型の人物であるスタリンが共産主義世界をつくったということは、イエスが再臨されて共生共共義主義を蕩減復されるということを、前もって見せてくださったのである。したがって、は、第一次世界大が終了したあとから再臨期が始まったと見なければならないのである。

 

第二節 イエスはいかに再臨されるか

(一)聖書を見る
(二)イエスの再臨は地上誕生をもってなされる
(三)雲にってられるという聖句は何を意味するのか
(四)イエスはなぜ雲にって再臨されると言われたのか

 

(一)聖書を見る
神は、時ならぬ時に、時のことを暗示して、いかなる時代のいかなる環境にある人でも、自由にその知能と心の程度にじて、神の理に対応する時代的な要求を悟るようにさせるため、すべての天倫にする重要な問題を、象と比喩とをもって示してこられたのである(ヨハネ一六25)。それゆえ、聖書は、各その程度の差はあるが、それを解する者に、みな相異なる点を立てさせるような結果をもたらすのである。派が分裂していくその主要な原因は、にここにある。ゆえに、聖書を解するにたっては、その点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。
ヨハネにする問題が、その一つの良い例となるのであるが、我は、イエス以後二〇〇〇年間も、洗ヨハネがその責任を完遂したという先入をもって聖書をんできたので、聖書もそのように見えたのであった。ところが、それと反の立場から聖書を再び詳しく調べてみることによって、洗ヨハネは、その責任を完遂できなかったという事が明らかにされたのである(前編第四章第二節(三))。このように、我今日に至るまで、聖書の文字のみにとらわれ、イエスが雲にってられると定する立場から聖書をんできたので、聖書もそのように見えたのである。しかし、イエスが雲にってられるということは、現代人の知性をもってしては、到底理解できない事であるから、我は、聖書の文字が物語っている、そのの意味を把握するために、従来とは異なる角度で、もう一度、聖書を詳しく調べてみる必要があるのである。
は、聖書の洗ヨハネにする部分から、また一つの新しい点を見した。預言者マラキは、メシヤ降臨に先立って、に昇天したエリヤがまずるであろうと預言したのであった(マラキ四5)。したがって、イエス時のユダヤ人たちは、昇天したエリヤその人が再臨するものと思っていたから、然エリヤは天より降りてくるであろうと信じ、その日を切望していたのである。ところが、意外にもザカリヤの息子として生まれてきた(ルカ一13)洗ヨハネを指して、イエスは、彼こそがエリヤであると、明らかに言われたのである(マタイ一一14)。はここにおいて、エリヤの再臨が、時のユダヤ人たちが信じていたように、彼が天から降りてくることによってなされたのではなく、地上で洗ヨハネとして生まれてくることによってなされたという事を、イエスの証言によって知ることができるのである。これと同に、今日に至るまで、多くの信徒たちは、イエスが雲にって再びられるであろうと信じてきたのであるが、その昔、エリヤの再臨の際が、我に見せてくれたように、再臨のときも初臨のときと同、彼が地上で肉体をもって誕生されるかもしれないということを、否定し得る何らの根もないのである。それでは、今我はここにおいて、イエスが地上に肉身をもっての誕生というかたちで再臨される可能性があるという点から、これにする聖書の多くの記を、もう一度詳しく調べてみることにしよう。
イエスの初臨のときにも、多くの者たちは、メシヤがユダヤのベツレヘムで、ダビデの子孫として生まれるということを知っていたのである(マタイ二5、6)。しかし一方、ダニエル書に「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲にってきて」(ダニエル七13)と記されているみ言により、メシヤが雲にって降臨されるかもしれないと信ずる信徒たちもいたであろうということは、推測するに難くないのである。それゆえに、イエスが十字架で亡くなられたのちにおいても、ユダヤ人たちの中には、地上で肉身をもって生まれたイエスがメシヤになり得るはずはないと言って、反キリスト運動を起こした者たちもいたのであった。それゆえに、使徒ヨハネは彼らを警告するために、「イエスキリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネ7)と言って、肉身誕生をもって現れたイエスを否認する者たちを、反キリストと規定したのである。ダニエル書七章13節のみ言は、イエスの再臨のときに起こることを預言したものであると主張する者たちもいる。しかし、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」(マタイ一一13)というみ言、あるいは、「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(ロマ一〇・4)と記されているみ言を見ても分かるように、約時代には、メシヤの降臨をもって復帰摂理の全目的を完成しようとする理をしてこられたので、イエス御自身が、自ら再臨されることを言われるその前までは、一度られたメシヤがまた再臨されるであろうなどとは、だれも想像することができなかったはずである。したがって、イエス時のユダヤ人たちには、ダニエル書七章13節27のみ言がメシヤの再臨にする預言であるなどとは、だれも考えも及ばなかったことなのである。それゆえに、時のユダヤ人たちは、この預言のみ言をイエスの初臨のときに現れる現象として、認識していたのであった。このようにイエスの初臨のときにも、聖書的根によって、メシヤは雲にってられるであろうと、信じていた信徒たちは少なくなかったのである。しかしイエスは、際には地上に肉身をもって誕生されたのであるから、再臨なさるときにもまた、そのようになるかもしれないという立場から、我はもう一度、聖書を詳しく調べてみなければならないのである。

(二)イエスの再臨は地上誕生をもってなされる
ルカ福音書一七章24節から25節を見ると、イエスは将来、彼が再臨されるときに起こる事柄を予想されながら、「人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人に捨てられねばならない」と言われたのであった。もしイエスが、聖書の文字どおりに雲にって、天使長のラッパの音と共に、神の光の中に再臨されるとするならば(マタイ二四30、31)、いかに罪ちあふれている時代であろうとも、このような姿をもってられるイエスを信奉しない人がいるであろうか。それゆえに、イエスがもし雲にってられるとするならば、苦しみを受けられるとか、この時代の人から捨てられるとかいうようなことは、絶にあり得ないことといわなければならない。
それではイエスは、なぜ、再臨されるとき、そのように不幸になると言われたのであろうか。イエス時のユダヤ人たちは、預言者マラキが預言したように(マラキ四5)、メシヤに先んじてエリヤが天から再臨し、メシヤの降臨にして示してくれることを待ち望んでいたのである。ところがユダヤ人たちは、まだエリヤがたという知らせさえも聞かない先に、イエスが微たる存在のまま、人のように突如メシヤを名って現れたために、彼らはイエスをんじ、冷遇したのであった(前編第四章第二節(二))。イエスは、このような御自身を顧みられるとき、再臨なさるときにもまた、初臨のときと同、天だけを仰ぎ見ながらメシヤを待ち焦がれるであろうところのキリスト信徒たちの前に、地上から誕生された身をもって、人のように現れるなら(3)、再び彼らに異端者として追われ、苦しみを受けることが予想されたので、そのようにこの時代の人から捨てられなければならないと言われたのであった。したがって、この聖句はイエスが肉身をもって再臨されることによってのみ、理の目的が成就されるのであり、そうせずに、雲にってられるのでは、決してその目的は成就されないことを示したものだということを、我は知らなければならない。
さらに、ルカ福音書一八章8節を見ると、イエスが、「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子がるとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言がある。終末に近づけば近づくほど、篤い信仰を立てようと努力する信徒たちが次第にえてきつつあり、しかも、雲にって、天使のラッパの音と共に、神の光のうちに主が現れるというのに、そのときなぜ信仰する人はおろか信仰という言葉さえも見ることができないほどに、信徒たちが不信にるはずがあろうか。このみ言もまた同じく、イエスが雲にって再臨されるとするならば、決してそのようになるはずがないことなのである。我が今、イエス時のあらゆる事情を回想してみると、ユダヤ人たちは、将来エリヤが天から降りてきたのちに、メシヤがベツレヘムに、ユダヤ人の王として誕生されるであろうと信じてきたのである(マタイ二6)。ところがまだエリヤさえも現れていないというのに、不意に、ナザレで大工の息子として成長してきた一人の年が、メシヤを名って出てきたのであるから、彼らユダヤ人の中からは、死を悟してまでも彼におうとするような、篤な信仰を見ることができなかったのである。イエスはこのような事情を悲しまれながら、将来再臨されるときにおいても、すべての信徒たちが、イエスが雲にって再臨されるものと信じ、天だけを眺めるであろうから、御自分が再び地上に肉身をもって現れるなら、彼らも必ずこのユダヤ人たちと同じく、信仰という言葉さえも見られないほどに不信仰にるであろうということを予想されて、そのように嘆かれたのであった。それゆえに、この聖句について見ても、イエスが地上で誕生されない限り、決してそこに書かれたとおりのことは起こり得るはずがないといえるのである。
また、この聖句を、終末における信徒たちの受ける艱難が、あまりにも大きいために、彼らがみな不信にってそのようになるのであると解する者たちもいる。しかし、過去の復過程において、艱難が信徒たちの信仰の妨げとなったことはなかった。まして、信徒たちが信仰の最後の門に突入する終末において、そのようなことがあり得るであろうか。艱難や苦痛が激しくなればなるほど、天からの救いの手をよりく熱望し、神を探し求めるようになるのが、万人共通の信仰生活の態だということを我は知らなければならない。
そこで再び我は、イエスが、マタイ福音書七章22節から23節にかけて、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法をく者どもよ、行ってしまえ』」と言われたみ言のあるのを見いだす。イエスの名によって奇跡を行うほど信仰の篤い信徒であるならば、光のうちに雲にってられるイエスを、だれよりも固く信じ、忠わないはずがあろうか。にもかかわらず、なぜそのような彼らが、その日イエスによって、かくまでしい排斥を受けるようになると言われたのであろうか。もし、そのような信仰の篤い信徒たちさえも、イエスによって見捨てられるとするならば、終末において救いを受け得る信徒は、一人もいないということになる。したがって、このみ言もまた、もしイエスが雲にってられるとすれば、決して、そのようなことが生ずる道理はないのである。
イエス時においても、奇跡を行うほど信仰の篤い信徒たちが、相にいたはずである。しかし、メシヤに先立ってエリヤが天から降りてくると信じていた彼らは、洗ヨハネこそ、ほかでもない、彼らが切に待望していたエリヤであったということを知らなかったのであり(ヨハネ一21)、したがって、たり給うたメシヤまでも排斥してしまったので、イエスもまたをのんで彼らを見捨てなければならなくなったのである。これと同に、彼が再臨されるときにも、地上から誕生されるならば、イエスが雲にってられるものと信じている信徒たちは、必ず彼を排斥するに相違ないので、いかに信仰の篤い信徒たちであろうと、彼らは不法を行う者として、イエスから見捨てられざるを得ないであろうというのがこのみ言の意なのである。
ルカ福音書一七章20節以下に記されている終末も、もし、イエスが雲にって再臨されるとすれば、このとおりのことが起こるということはあり得ない。したがって、イエスが地上から誕生されるという前提に立って初めて、この聖句は完全に解かれるのである。では我はここで、これらの聖句を一つ一つ取りあげて、その容を更に詳しく調べてみることにしよう。
「神のは、見られるかたちでるものではない」(ルカ一七20)。もしイエスが、雲にってられるとするならば、神のはだれもがみな見ることができるようなかたちでくるはずである。ところが初臨のときにも、イエスが誕生されることによって、に神のはきていたにもかかわらず、エリヤが空中から再臨するのだと信じ、それのみを待望していたユダヤ人たちは、イエスを信ずることができず、それほどまでに待ち望んできた神のを見ることができなかったのである。このように再臨のときにも、イエスが地上に誕生されることにより、そのときから神のがくるわけであるが、雲にって再臨するとばかり信じている信徒たちは、地上に再臨された主を信ずることができず、待望の神のを見ることができないようになるので、そのように言われたのである。
「神のは、にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七21)。イエスの初臨のときにも、まず初めに彼をメシヤと信じ、彼にい、彼に侍った人たちにとっては、にその心のうちに天がつくられていたのであった。そのように再臨されるときにも、彼は地上で誕生されるのであるから、彼を先に知って、彼に侍る信徒たちを中心として見るならば、天は先に彼らの心のうちにつくられるのであり、このような個人が漸次集まって、社をつくり、家を形成するようになれば、その天は次第に見ることができる世界として現れるはずなのである。したがって、イエスが雲にってられて、一瞬にして、見ることのできる天をつくられるのではないということを、我は知らなければならない。
「人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時がるであろう」(ルカ一七22)。もし、イエスが天使長のラッパの音と共に、雲にっ て再臨されるとするならば、だれもがみな一度に彼を見ることになるので、その人の子の日を見ることができないはずはないのである。それでは、イエスはどう して人の子の日を見ることができないと言われたのであろうか。初臨のときも、イエスが地上で誕生されると同時に、人の子の日はにそのときにきていたのであったが、不信仰にったユダヤ人たちは、この日を見ることができなかった。これと同に、再臨のときにおいても、イエスが地上に誕生される日をもって、人の子の日はくるのであるが、イエスが雲にってられると信ずる信徒たちは、イエスを見ても、彼をメシヤとして信ずることができないので、人の子の日がにきているにもかかわらず、彼らはそれをそのような日として見ることができないようになるということなのである。
「人はあなたがたに、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』と言うだろう。しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな」(ルカ一七23)。に復活論で論じたごとく、終末においては、心がある基準に達した信徒たちは「汝は主なり」という啓示を受けるようになるのであるが、そのとき、彼らがこのような啓示を受けるようになる原理を知らなければ、自らを再臨主と自するようになり、たり給う主の前に、キリストとなるのである。それゆえに、このような人に惑わされることを心配されて、そのような警告のみ言を下さったのである。
「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう」(ルカ一七24)。イエスが誕生されたとき、ユダヤ人の王が生まれたという知らせが、サタン世界のヘロデ王のところにまで聞こえ、エルサレムの人の間で動が起こったと記されている(マタイ二2、3)。ましてや、再臨のときにおいては、交通と通信機が極度に達しているはずであるから、再臨にする知らせは、あたかも、妻のように、一瞬のうちに東西間を往することであろう。
ルカ福音書一七章25節にしては、に論じたので、ここでは省くことにする。
「ノアの時にあったように、人の子の時にも同なことが起るであろう」(ルカ一七26)。ノアは、洪水審判があるということを知って、人に箱舟の中に入るようにと呼びかけたのであるが、彼らはそれに耳を傾けず、みな滅んでしまったのである。これと同に、イエスも地上に再臨されて、理の箱舟の中に入るようにと人に呼びかけるであろう。しかし、主が雲にって再臨するであろうと信じ、天だけを眺め入っている信徒たちは、地上から聞こえてくるそのみ言には一向耳を傾けず、かえって彼を異端者であると排斥するようになり、ノアのときと同、彼らはみな、理のみ旨を信ずることができない立場にってしまうであろう。
「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七33)。雲にって、天使長のラッパの音と共に、光の中で再臨される主を信ずるのであれば、死を悟しなければならないようなことが生ずるはずはない。ところが、イエスは地上誕生をもって再臨されるので、雲にって再臨されるものと固く信じている信徒たちには、彼は異端者としてしか見えず、ゆえに、彼を信じ、彼にうためには、死を悟しなければならないのである。しかし、そのような悟をしてまで彼を信じ、彼にうならば、その結果はかえって生きるようになるけれども、これに反し、現的な環境に迎合して、彼を異端として排斥して生きのびようと後ずさりをするようになれば、その結果はむしろ死にらざるを得ないのである。
「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」(ルカ一七37)。イエスは弟子たちが彼の再臨される場所を問うたとき、このように答えられた。ところで我は、アブラハムの祭壇に供えられた、裂かなかった鳩の死体の上に荒い鳥が降りてきたという事を知っている(創一五11)。これは、聖別されていないものがある所には、それを取るためにサタンが付きまとうということを表示するのである。それゆえに、イエスのこの最後の答えは、死体のある所に、その死体を取ろうとしてサタンが集まるように、命の根源であられる主は、命のある所にられるということを意味するのである。結局このみ言は、主は信仰の篤い信徒たちの中に現れるということを意味するのである。に、復活論で述べたように、イエスの再臨期には、多くの人たちの協助によって、篤な信徒たちが一つの所に集まるようになるのであるが、ここが、いわば命のある所であり、主が現される所となるのである。イエスは初臨のときにも、神を最も熱心に信奉してきた選民の中で誕生されたのであり、選民の中でも彼を信じ、彼にう弟子たちの中に、メシヤとして現れ給うたのであった。
このように、イエスが再臨されるときには、彼は地上で誕生されるので、一二章5節に、「女は男の子を産んだが、彼はのつえをもってすべての民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた」と記されているのである。ここで言っているの杖とは、罪世界を審判して、地上天を復する神のみ言を意味する。人類史の終末論で詳しく述べたように、火の審判は舌の審判であり、すなわち、これはみ言の審判をいうのである(ヤコブ三6)。それゆえに、イエスが語られたそのみ言が、彼らを裁くと言われたのであり(ヨハネ一二48)、不信仰な人が裁かれ、滅ぼされるべき日に火でかれる(ペテロ7)とも言われ、また主は、口の息をもって不法の者を殺すとも言われたのである(テサロニケ8)。ゆえに、世を裁かれるイエスの口のむち、舌と口の息、すなわち彼のみ言こそが、そのの杖なのである(イザヤ一一4)。ゆえに二章27節に、「のつえをもって、ちょうど土の器をくように、彼らを治めるであろう」と記されているのである。ところがこの男の子は明らかに女の体から生まれたといわれているのであり、また彼は神のみもとに、そのみ座の所にまで引きあげられたと記されているのである。それでは、女の体から神のみ座に座られるお方として誕生され、神のみ言をもって万を治めるその男子とは、いったいだれであろうか。彼こそほかならぬ地上での王の王として誕生され、地上天を成就される、再臨のイエスでなければならないのである。マタイ福音書の冒頭を見れば、イエスの先祖には四人の淫婦があったということを知ることができる。これは万民の救い主が、罪の血統を通じて、罪のない人間としてられてから、罪の血統を受けいだ子孫たちを救われるということを見せてくださるために記されたのである。
今までは上述の聖句の中の「女」を、教会として解していた信徒たちが多かった。しかし、これはイエスが雲にってられるという前提のもとで、この聖句を解したので、教会と解する以外に意味の取りようがなかったためにすぎない。その他、一二章17節に記されている「女のりの子ら」というのも、その次に記されているように、イエスを信ずることによって、その証をもっている者たちであり、神の養子としての位置に(ロマ八23)立っている信徒たちを意味するのである。
イエスの再臨にし、ある者たちは、聖の降臨によって(使徒八16)、イエスが各自の心の在するようになることが(ヨハネ一四20)、すなわち彼の再臨であると信じている。しかし、イエスは彼が十字架で亡くなられた直後、五旬節に聖が降臨されたときから(使徒二4)今日に至るまで、だれでも彼を信ずる人の心のに常に在されるようになったのであり、もし、これをもって再臨であるとするならば、彼の再臨はに二〇〇〇年前になされたのであると見なければならない。
またある派では、イエスが体をもって再臨されると信じている。しかしイエスはその昔、墓から三日後に復活された直後、生きておられたときと少しもわらない姿をもって弟子たちを訪ねられたのであり(マタイ二八9)、そのときから今日に至るまで、心基準の高い信徒たちのもとには、いつでも自由に訪ねてこられて、あらゆる事柄を指示されたのであった。したがって、このような再臨はに二〇〇〇年前になされたのであると見なければならないし、もし、そうであるとするなら、今日の我が、彼の再臨の日を、史的な日として、かくも望みをかけ、待ち焦がれる必要はなかったのである。
イエスの弟子たちは、イエスの体とはっていたにもかかわらず、その再臨の日を待望している事から見ても、弟子たちが待っていたのは、体としての再臨ではなかったということを知ることができるのである。そればかりでなく、二二章20節に、イエスは、的にいつもっておられた使徒ヨハネに向かって、「しかり、わたしはすぐにる」と言われたのであり、また、このみ言を聞いたヨハネは、「主イエスよ、きたりませ」と答えたのであった。これによれば、イエス御自身も、体をもって地上にられるのが再臨ではないということをに言い表されたのであり、また使徒ヨハネも、イエスが体で現れることをもって彼の再臨であるとは見なしていなかったということを、我は知ることができるのである。このように、イエスが体をもって再臨されるのでないとすれば、彼が初臨のときと同、肉身をもって再臨される以外にはないということは極めて自明のことであろう。
創造原理において詳しく述べたように、神は無形、有形の二つの世界を創造されたのち、その祝福のみ言のとおりに、二つの世界を主管させるために、人間を人体と肉身との二つの部分をもって創造されたのであった。しかしながら、アダムが落し、人間はこの二つの世界の主管者として立つことができなくなったので、主管者を失った被造物は嘆息しながら、自分たちを主管してくれる神の子たちが現れることを待ち望むようになったのである(ロマ八19~22)。それゆえに、イエスは、完成されたアダムの位置において、この二つの世界の完全な主管者としてられ(コリント一五27)、あらゆる信徒たちを御自分に接がせ(ロマ一一17)、一体とならしめることによって、彼らをもみな被造世界の主管者として立たしめようとされたのである。しかるに、ユダヤ民族がイエスに逆らうようになったので、彼らと全人類とを神の前に復させるための代贖の件として、イエスの体をサタンに引き渡され、その肉身はサタンの侵入を受けるようになったのである。したがって、肉的な救いは成就されず、後日再臨されて、それを成就すると約束されてから、この世を去られたのであった(前編第四章第一節(四))。それゆえに、今まで地上において肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管することによって、それらを一つに和動し得た人間は、一人もいなかったのである。したがって、このような基準の完成体として再臨されるイエスは、体であってはならないのである。初臨のときと同肉共に完成した存在としてられ、全人類をせて彼に接がせて、一つの肢体となるようにすることによって(ロマ一一17)、彼らが肉共に完成し、無形、有形二つの世界を主管するようになさしめなくてはならないのである。
イエスは、地上天を復されて、その復された全人類のの親となられ、そのの王となるべきであった(イザヤ九6、ルカ一3133)。ところが、ユダヤ人たちの不信仰によって、その目的を成就することができなかったので、将来、再臨されて成就なさることを約束されてから、十字架で亡くなられたのである。したがって、彼が再臨されても、初臨のときと同、地上天をつくられ、そこで全人類のの親となられ、また王とならなければならないのである。それゆえに、イエスは再臨されるときにも、初臨のときと同、肉身をもって地上に誕生されなければならないのである。
また、人間の贖罪は、彼が地上で肉身をつけている場合にのみ可能なのである(前編第一章第六節(三)(3))。それゆえに、イエスは、この目的を達成するため、肉身をもって降臨されなければならなかったのである。しかるに、イエスの十字架による救いは、あくまでも的な救いのみにとどまり、我の肉身を通して遺されてきたすべての原罪は依然としてそのままっているので、イエスはこれらを贖罪し、人間の肉的救いまで完全に成就するために、再臨されなければならないのである。したがって、そのイエスの再臨も、体をもってなされるのでは、この目的を達成することができないので、初臨のときと同じく、肉身をもってられなければならないのである。に、イエスの再臨は体の再臨ではなくして、初臨のときと同、肉身の再臨であるということを、あらゆる角度から明らかにした。ところがもし、イエスが体をもって再臨されるとしても、時間と空間を超越して、眼によってしか見ることのできない体が、物質でできている雲にってられるということは、どう考えても、不合理なことといわなければならない。しかも、彼の再臨が体でなされるのでなく、肉身をもってなされるということが事であるとすれば、その肉身をもって空中のいずこにおられ、いかにして雲にってられるのであろうか。これにしては、全能なる神であるなら、どうしてそのような奇跡を行い得ないはずがあろうかと、反問される人がいるかもしれない。しかし、神は自ら立てられた法則を、自らが無視するという立場に立たれることはできないのである。したがって神は、我と少しも異なるところのない肉身をとって再臨されなければならないイエスを、わざわざ地球でない、他のどこかの天体の空間の中におかれ、雲にって再臨されるようにするというような非原理的理をされる必要はさらになく、また、そのようなことをなさることもできないのである。今まで調べてきた、あらゆる論証に立脚してみるとき、イエスの再臨が、地上に肉身をもって誕生されることによってなされるということは、だれも疑う余地のないものといわなければならない。

(三)雲にってられるという聖句は何を意味するのか
イエスの再臨が、地上誕生をもってなされるとするならば、雲にってられるというみ言は、いったい、何を意味するのかを知らなければならない。そして、これを知るためには、まず雲とは何を比喩したものであるかということを知らなければならないのである。一章7節に、「見よ、彼は、雲にってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」と記されているみ言を見れば、すべての人たちが、必ず再臨されるイエスを見るようになっているのである。ところが、ステパノが殉するとき、神の右に立っておられるイエスを見たのは、眼が開いた聖徒たちだけであった(使徒七55)。したがって、界におられるイエスが、体そのままをもって再臨されるとすれば、彼は眼が開けている人にだけ見えるのであるから、決して、各人の目がみな、体をもって再臨されるイエスを見ることはできないのである。ゆえに、聖書に、すべての人の目がみな再臨される主を見ることができるといっているのは、彼が肉身をとってられるからであるということを知らなければならない。また肉身をつけているイエスが、雲にってられるということは不可能なことであるから、ここでいうところの雲は、明らかに何かを比喩しているに相違ないのである。ところが、同じ聖句の中で、彼を刺しとおした者たちも見るであろうと記されている。イエスを刺しとおした者は、ロマの兵士であった。しかしロマの兵士は、再臨されるイエスを見ることはできないのである。なぜかといえば、に死んでしまったロマの兵士が、地上で再臨されるイエスを見ることができるためには、復活しなければならないのであるが、章5節の記によれば、イエスが再臨されるとき復活し得る人は、最初の復活に参与する人だけであり、その他の死んだ者たちは、千年王時代をたのちに初めて復活することができるといわれているからである。それゆえに、ここでいっている「刺しとおした者」というのは、どう考えても比喩として解する以外にはなく、イエスが雲にってられると信じていたにもかかわらず、意外にも彼が地上で肉身誕生をもって再臨されるようになる結果、それを知らずに彼を迫害するようになる者たちのことを指摘したものと見なければならない。このように、「刺しとおした者」を比喩として解するほかはないとするならば、同じ句節の中にある「雲」という語句を、これまた比喩として解しても、何ら不合理なことはないはずである。
それでは、雲とは果たして何を比喩した言葉であろうか。雲は地上から汚れた水が蒸化)して、天に昇っていったものをいう。しかるに、一七章15節を見ると、水は落した人間を象している。したがって、このような意味のものとして解すれば、雲は、落した人間が重生し、その心が常に地にあるのでなく、天にある、いわば信仰の篤い信徒たちを意味するものであるということを知り得るのである。また雲は、聖書、あるいは古典において、群衆を表示する言葉としても使用されている(ヘブル一二1)。そればかりでなく、今日の東洋や西洋の言語生活においても、やはりそのように使われているのを、我はいくらでも見いだすことができるのである。またセ路程において、イスラエル民族を導いた(+)の雲の柱は、将来、同じ民族の指導者としてられるイエス(+)を表示したのであり、夜(-)の火の柱は、イエスの象存在として、火の役割をもってイスラエル民族を導かれる聖(-)を表示したのであった。我は、以上の明により、イエスが雲にってられるというのは、イエスが重生した信徒たちの群れの中で、第二イスラエルであるキリスト信徒たちの指導者として現れるということを意味するものであることが分かる。に詳しく考察したように、弟子たちがイエスに、どこに再臨されるかということについて質問したとき(ルカ一七37)、イエスが、死体のある所にははげたかが集まるものであると答えられたそのみ言の容も、その裏として信仰の篤い信徒たちが集まる所にイエスがられるということを意味したのであって、要するに、雲にってられるというみ言と同一の容であることを、我は知ることができる。
雲を、以上のように比喩として解すると、イエスは初臨のときにも、天から雲にってられた方であったと見ることができるのである。なんとなれば、コリント一五章47節に、「第一の人(アダム)は地から出て土にし、第二の人(イエス)は天からる」とあるみ言や、また、ヨハネ福音書三章13節に、「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」とあるみ言のとおり、イエスは事上、地上で誕生されたのであるが、その目的や、値を中心として見るときには、彼は明らかに、天より降りてこられた方であったからである。ダニエル書七章13節に、初臨のときにも、イエスがやはり雲にってられるといい表していた理由も、はここにあったのである。

(四)イエスはなぜ雲にって再臨されると言われたのか
イエスが、雲にって再臨されると言われたのには、二つの理由があった。第一には、キリストの惑わしを防ぐためであった。もしイエスが地上で肉身誕生によって再臨されるということを言われたとすれば、キリストの惑わしによる混を防ぐことができなかったであろう。イエスが卑賤な立場から立ってメシヤとして現れたのであるから、いかに卑賤な人であっても的にある基準に到達するようになれば、それぞれが再臨主であると自するようになって世を惑わすからである。しかし、幸いにもあらゆる信徒たちがイエスが雲にってられると信じ、天だけを仰いできたので、この混を免れることができたのである。ところが今はときが到したので、イエスが再び地上で誕生されるということを、明らかにえてやらなければならないのである。
第二には、しい信仰の路程をいている信徒たちを激するためであった。イエスはこのほかにも、なるべく早く神の目的を達成しようとされて、信徒たちを激されるために、前後のつじつまがよく合わないようなみ言を語られた例が少なくなかった。その例をげてみると、マタイ福音書一23節に、イエスは弟子たちに彼の再臨がすぐに成就されるということを信じさせるために、「よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終らないうちに、人の子はるであろう」と言われたみ言が記されており、またヨハネ福音書二一章18節から22節までに記されているみ言を見ると、イエスが、将来ペテロが殉するであろうことを暗示されたとき、このみ言を聞いていたペテロが、「主よ、この人(ヨハネ)はどうなのですか」と問うた質問にして、「たとい、わたしのる時まで彼が生きっていることを、わたしが望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか」と答えられたのである。このみ言によって、ヨハネが世を去る前にイエスが再臨されるのではなかろうかと待ち望んだ弟子たちもいたのであった。またマタイ福音書一六章28節を見ると、イエスは、「よく聞いておくがよい、人の子が御の力をもってるのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と言われたので、弟子たちは、自分たちが生きている間に、再臨されるイエスにうかもしれないと考えていたのであった。
このようにイエスはすぐにでも再臨されるかのように話されたので、弟子たちはイエスの再臨を熱望する一念から、ロマ帝政とユダヤの迫害の中にあっても、かえって聖ちあふれる恩を受けて(使徒二1~4)、初代教会を創設したのであった。イエスが雲にり、神の威と光の中で、天からの天使のラッパの音と共に降臨され、妻のごとくにすべてのことを成就されると言われたのも、多くの苦難の中にある信徒たちを鼓舞し、激するためだったのである。

 

第三節 イエスはどこに再臨されるか

(一)イエスはユダヤ民族のに再臨されるか
(二)イエスは東のに再臨される
(三)東方のそのは、すなわち韓である

 

イエスが体をもって再臨されるのでなく、地上から肉身をもった人間として、誕生されるとするならば、彼は神が予定されたところの、そしてある選ばれた民族のに誕生されるはずである。それでは予定されたその場所とはいったいどこなのであろうか。

(一)イエスはユダヤ民族のに再臨されるか
七章4節に、イエスが再臨されるとき、イスラエルの子孫のあらゆる部族の中から、一番先に救いの印を押される者が、十四万四千人であると記されているみ言、また弟子たちがイスラエルの町を回り終わらないうちに人の子がるであろう(マタイ一〇・23)と言われたみ言、そしてまたイエスのみ言を聞いている人の中で、人の子がその王をもってこられるのを、生きって見る者がいる(マタイ一六28)と言われたみ言などを根として、イエスがユダヤ民族のに再臨されるのだと信じている信徒たちが分多い。しかしそれらはみな、神の根本理を知らないために、そのように考えるのである。
マタイ福音書二一章33節から43節によると、イエスはぶどう園の主人と農夫およびその息子と僕の例えをもって、自分を殺害する民族には再臨されないばかりでなく、その民族にゆだねた遺業までも奪いとって、彼の再臨のためにを結ぶ他のと民族にそれをえると、明らかに言われたのである。この比喩において、主人は神を、ぶどう園は神の遺業を、また農夫はこの遺業をゆだねられたイスラエルの選民を、そして僕は預言者を、主人の息子はイエスを、そのを結ぶ異邦人は、再臨されるイエスを迎えて神のみ旨を成就することができる他のあるの民を、各意味するのである。それではイエスは、なぜイスラエルの子孫たちに再臨されると言われたのであろうか。この問題を解明するために、まず我は、イスラエルとは何を意味するものかということについて調べてみることにしよう。
イスラエルという名は、ヤコブが「祭」のためのアベルの立場を確立するために、ヤボク河で天使とい、それに打ち勝つことによって、「勝利した」という意味をもって天からえられた名であった(創三二28)。ヤコブはこのように、アベルの立場を確立したのち、「祭」に成功することによって、「メシヤのための家庭的な基台」を造成したのである。したがって、この基台の上で、その目的を承した子孫たちをイスラエル選民というのである。ここでイスラエル選民というのは、信仰をもって勝利した民族を意味するものであり、ヤコブの血統的な子孫であるからといって、彼らのすべてをいうのではない。それゆえにヨハネは、ユダヤ人たちに、「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」(マタイ三9)と言ったのである。のみならずパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割が割でもない。かえって、れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらずによる心の割こそ割であって、そのほまれは人からではなく、神からるのである」(ロマ二2829)と言い、また「イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではな」いと証言したのであった(ロマ九6)。このみ言はつまり、神のみ旨のために生きもしないで、ただアブラハムの血統的な子孫であるという事のみをもって、選民であるとうぬぼれているユダヤ人たちを、叱責したみ言であったのである。
それゆえに、ヤコブの子孫たちがモセを中心として、エジプト人といながらその地を出したときには、イスラエル選民であったが、彼らが荒野で神に反逆したときには、もうにイスラエルではなかったのである。したがって、神は彼らをみな荒野で滅ぼしてしまわれ、モセにっ たその子孫たちだけをイスラエル選民として立て、カナンに入るようにされたのであった。そしてまた、その後のユダヤ民族はすべてがカナンの地に入った者の 子孫たちであったが、そのうち神に背いた十部族からなる北朝イスラエルは、もはやイスラエル選民ではなかったので、滅ぼしてしまわれ、神のみ旨にった二部族からなる南朝ユダだけがイスラエル選民となって、イエスを迎えるようになったのである。しかし、そのユダヤ人たちも、イエスを十字架に引き渡したことによって、イスラエル選民の資格を完全に失ってしまった。そこでパウロは、彼らにして先にげたようなみ言をもって、選民というものの意義を明らかにしたのである。
それでは、イエスが十字架で亡くなられてからのちのイスラエル選民は、いったいだれなのであろうか。それは、とりもなおさず、アブラハムの信仰を受けぎ、その子孫が完遂できなかったみ旨を承してきた、キリスト信徒たちなのである。ゆえにロマ書一一章11節に「彼ら(ユダヤ人たち)の罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」と言って、神の復帰摂理の中心が、イスラエル民族から異邦人に移されてしまったことを明らかにしているのである(使徒一三46)。したがって、「再臨されるメシヤのための基台」を造成しなければならないイスラエル選民とは、アブラハムの血統的な子孫をいうのではなく、あくまでもアブラハムの信仰を承したキリスト信徒たちをいうのだということが分かるのである。

(二)イエスは東のに再臨される
マタイ福音書二一章33節以下でイエスが比喩をもって言われたとおり、ユダヤ人たちはイエスを十字架に引き渡すことによって、ぶどう園の主人の息子を殺害した農夫の立場にってしまったのであった。それではユダヤ人たちから奪った神の遺業を相してを結ぶはどのなのであろうか。聖書はそのが「日の出づる方」すなわち東の方にあるとえているのである。
五章1節以下のみ言を見ると、神の右の手に、その側にも外側にも文字が書かれてあり、七つの封印で封じられた物があるのであるが、しかし、天にも地にも地の下にも、この物を開いて、それを見るにふさわしい者が、一人もいなかったので、ヨハネは激しく泣いたとある。そのときに小羊(イエス)が現れて、み座におられる方の右の手から物を受けとって(7)、その封印を一つずつ解きはじめられたのである(1)。
六章12節にイエスが第六の封印を解かれたことについて記したのち、最後の封印を解かれる前の中間の話として、第七章が記されたのであった。ところで、その七章2節から3節を見ると、日の出る方、すなわち東の方から天使が上ってきて、最後の審判において選ばれた者に印を押したが、その印を押された者のが十四万四千だと言った。そして一四章1節には、その十四万四千人の群れと共に小羊、すなわちイエスがおられたと書かれている。我はこれらの聖句から推測して、イエスは日の出る方、すなわち東方のに誕生なさって、そこでまず選ばれた十四万四千の群れの額に、小羊と父の印を押されるということを(一四1)知ることができる。したがって、神の遺業を受けいで、イエスの再臨のためのを結ぶは(マタイ二一43)東方にあるということが分かってくる。では、東方にある多くのの中で、どのがこれにたるのであろうか。

(三)東方のそのは、すなわち韓である
今まで明したように、イエスは、アブラハムの血統的な子孫たちに再臨されるのではなく、彼らの遺業を相してを結ぶに再臨されることを我は知り、また、を結ぶは、東方のの中の一つであることも知った。古くから、東方のとは韓、日本、中の東洋三をいう。ところがそのうちの日本は代、天照大神を崇してきたとして、更に、全体主義家として、再臨期にたっており、また、以下に論述するようにその時、韓のキリストを過酷に迫害したであった(後編第五章第四節(三)(3)照)。そして中は共産化したであるため、この二つのはいずれもサタン側の家なのである。したがって端的にいって、イエスが再臨される東方のそのは、すなわち韓以外にない。それではこれから、韓が再臨されるイエスを迎え得るとなる理由を原理に立脚して多角的に論証してみることにする。メシヤが降臨されるは、次のような件を備えなければならないのである。

(1)このは蕩減復の民族的な基台を立てなければならない
がメシヤを迎え得るとなるためには、原理的に見て、天宙的なカナン復のための「四十日サタン分立の民族的な基台」を立てなければならないのである。
それでは、民族がこの基台を立てなければならない根は何であるのか。イエスが韓に再臨されるならば、韓民族は第三イスラエル選民となるのである。約時代に、神のみ旨を信奉し、エジプトから迫害を受けてきた、アブラハムの血統的な子孫が第一イスラエルであり、第一イスラエル選民から異端者として追われながら、復活したイエスを信奉して、第二次の復帰摂理を承してきたキリスト信徒たちが第二イスラエル選民であった。ところが、ルカ福音書一七章25節以下に、イエスが再臨されるときにもノアのときと同じく、まず多くの苦難を受けるであろうと預言されたとおり、再臨のイエスは、第二イスラエル選民であるすべてのキリスト信徒たちからも異端者として見捨てられるほかはないということを、我は、に論じたことを通じて知っているのである。もしそのようになるとすれば、あたかも、神が、イエスを排斥したユダヤ人たちを捨てられたように、再臨のイエスを迫害するキリスト信徒たちも捨てられるほかはないであろう(マタイ七23)。そうすれば、再臨主を信奉して、神の第三次理を完遂しなければならないその民族は、第三イスラエル選民となるのである。
ところで、第一イスラエルは、民族的カナン復路程を出するための「四十日サタン分立基台」を立てるために、時サタン世界であったエジプトで、四〇〇年間を苦役したのであった。これと同じく、第二イスラエルも、世界的カナン復路程を出するための「四十日サタン分立基台」を立てるために、時、サタンの世界であったロマ帝で、四〇〇年間迫害を受けながらい勝利したのである。したがって、韓民族も、第三イスラエル選民となり、天宙的なカナン復路程を出するための「四十日サタン分立基台」を立てるためには、サタン側のある家で、四十に該する年の苦役を受けなければならないのであり、これがすなわち、日本帝属国とされ、迫害を受けた四十年期間であったのである。
それでは民族は、どのような緯をて、日本帝のもとで四十年間の苦役を受けるようになったのであろうか。韓する日本の帝主義的侵略の手は、乙巳保護約によって伸ばされた。すなわち一九五年に、日本の伊藤博文と時の韓国学部大臣であった親日派李完用らによって、韓の外交一切を日本帝の外務省に一任する約が成立した。そうして、日本は韓にその統監(のちの督)をおき、必要な地域ごとに理事官をおいて、一切の政に干することによって、日本は事上韓から政治、外交、経済などすべての主要部門の利を奪したのであるが、これがすなわち乙巳保護約であった。
西一九一年、日本が制的に韓を合した後には、韓民族の自由を完全に奪し、多くの愛者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、虐無道な行をほしいままにし、一九一九年三月一日韓国独立運動のときには、全至る所で多の良民を殺戮した。
さらに、一九二三年に生した日本の東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓人たちを知れず虐殺したのであった。
一方、多くの韓人たちは日本の政に耐えることができず、肥沃な故の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる州の野に移民し、臥薪嘗胆の試練をて、祖の解放に力したのであった。日本軍は、このような韓民族の多くの村落を探索しては、老人から幼に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような政を帝が滅亡する日までけたのであった。このように、立運動で、あるいは野で倒れた民衆は主としてキリスト信徒たちであったのであり、さらに帝末期にはキリスト信徒に神社参拝要し、これにじない多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、八一五解放直前の日本帝主義の韓キリスト教弾圧政策は、に極非道なものであった。しかし、日本の天皇が第二次大において敗を宣言することによって韓民族は、ついにそのから解放されたのである。
このように民族は、一九五年の乙巳保護約以後一九四五年解放されるときまで四十年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやロマ帝で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。そして、この立運動が主に国内外のキリスト信徒たちを中心として起こったので、迫害を受けたのが主としてキリスト信徒たちであったことはいうまでもない。

(2)このは神の一線であると同時にサタンの一線でなければならない
神は、アダムに被造世界を主管するようにと祝福されたので、サタンが落したアダムとその子孫たちを先に立たせて、その祝福型の非原理世界を先につくっていくことを許さないわけにはいかなくなったのである。その結果、神はそのあとを追いながらこの世界を天の側に復してこられたので、史の終末に至れば、この世界は、必然的に民主と共産の二つの世界に分かれるようになるということは、前に述べたとおりである。ところで、イエスは、落世界を創造本然の世界に復されるために再臨されるのであるから、まず再臨されるはずのを中心として、共産世界を天の側に復するための理をなさるということは確かである。それゆえ、イエスが再臨される韓は神が最も愛される一線であると同時に、サタンが最も憎む一線ともなるので、民主と共産の二つの勢力がここで互いに衝突しあうようになるのであり、この衝突する一線がすなわち三十八度線である。すなわち、韓の三十八度線はこのような復帰摂理によって形成されたものである。
神とサタンの峙線において、勝敗を決する件としておかれるものが供え物である。ところで、韓民族は天宙復のため、この一線におかれた民族的供え物であるがゆえに、あたかも、アブラハムが供え物を裂かなければならなかったように、この民族的な供え物も裂かなければならないので、これを三十八度線で裂き、「カイン」「アベル」の二つの型の民族に分けて立てたのである。したがって、この三十八度線は民主と共産の一線であると同時に、神とサタンの一線ともなるのである。それゆえ、三十八度線で起きた六二五動(韓)は土分に基づく純な同族の抗ではなく、民主と共産、二つの世界間の決であり、さらには神とサタンとの決であった。二五動連加盟の多くの家が動員されたのは、この動が復帰摂理の目的のための世界性をびていたので、無意識のうちに、この理の目的に合わせて韓解放の事業に加担するためであったのである。
人間始祖が落するときに、天の側とサタンの側が一点において互いに分かれるようになったので、生と死、善と、愛と憎しみ、喜びと悲しみ、幸福と不幸なども、一点を中心として、長い史の期間において衝突しあってきたのであった。そうして、これらが、アベルとカインの二つの型の世界として、各分離されることにより、民主と共産の二つの世界として結したのであり、それらが再び韓を中心として、世界的な規模で衝突するようになったのである。それゆえ、宗と思想、政治と経済など、あらゆるものが、韓において摩擦しあい、衝突して、大きな混き起こしては、これが世界へと波及していくのである。なぜなら、先に界で起こったそのような現象が、復帰摂理の中心である韓を中心として、体的に展開され、それが世界的なものへと大していくようになるからである。しかし、イエスが「その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ二四32)と言われたそのみ言のとおり、このような混が起こるというのは、新しい秩序の世界がくるということを目で見せてくれる、一つの前兆であるということを知らなければならない。
弟子たちがイエスに、その再臨される場所について質問したとき、イエスは、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と答えられたのであった(ルカ一七37)。神の一線であり、またサタンの一線である韓で、永遠の命と死とが衝突するようになるので、はげたかで象されるサタンが死の群れを探し求めてこの土地に集まると同時に、命の群れを探し求めるイエスも、またこの土地にられるようになるのである。

(3)このは神の心情の象とならなければならない
神の心情の象となるためには、まず、血と汗との道をまなければならない。サタンが人間を主管するようになってから、人間は神と立するようになったので、神は子女を失った父母の心情をもって悲しまれながら逆無道の彼らを救おうとして、罪世界をさまよわれたのであった。そればかりでなく、神は、天に反逆する人間たちを救うために、愛する子女たちを宿敵サタンに牲として支われたのであり、ついにはひとり子イエスまで十字架に引き渡さなければならないその悲しみを味わわれたのであった。それゆえに、神は、人間が落してから今日に至るまで、一日として悲しみの晴れるいとまもなく、そのため、神のみ旨を代表してサタン世界とう個人と家庭と民族とは、常に血と汗との道を免れることがなかったのである。悲しまれる父母の心情の象となって、忠孝の道をんでいく子女が、どうして安逸な立場でその道をむことができるであろうか。それゆえ、メシヤを迎え得る民族は、神の心情の象として立つ孝子、孝女でなくてはならないので、然血と汗との路程をまなければならないのである。
第一イスラエルも苦難の道をみ、第二イスラエルもそれと同じ路程をんだのであるから、第三イスラエルとなる韓民族も、やはりまた、正にその悲な道をまざるを得ないのである。民族がんできた悲史路程は、このように神の選民としてまなければならない然の道であったので、際には、その苦難の道が結果的に韓民族をどれほど大きな幸福へ導くものとなったかもしれないのである。
つぎに、神の心情の象となる民族は、あくまでも善なる民族でなければならない。韓民族は一血統の民族として、四〇〇〇年間悠久なる史をけ、高句麗、新羅時代など大な勢を誇っていたときにも侵攻してきた外勢力を押しだすにとどまり、一度も他のを侵略したことはなかった。サタンの第一の本性が侵略性であるということに照らしあわせてみれば、こうした面から見ても、韓民族は天の側であることが明らかである。神の作は、いつも攻を受ける立場で勝利を獲得する。それゆえに、史路程において多くの預言者や善人たちが牲にされ、またひとり子であられるイエスまでも十字架につけられたのであるが、結果的には、勝利は常に天の側にせられてきたのであった。第一次、第二次の世界大においても、攻を加えたのはサタン側であったが、勝利はすべて天の側にしたのである。このように韓民族は有史以、幾多の民族から侵略を受けたのである。しかし、これはどこまでも韓民族が天の側に立って最終的な勝利を獲得するためなのである。
民族は先天的に宗的天稟をもっている。そして、その宗的な性向は常に現を離れたところで現以上のものを探し求めるものである。それゆえ、民族は民度が非常に低かった古代から今日に至るまで敬天思想がく、いたずらに自然を神格化することによって、そこから現的な幸福を求めるたぐいの宗は崇敬しなかった。そうして、韓民族は古くから、忠、孝、烈を崇敬する民族性をもっているのである。この民族が「沈清伝」や「春香」を民族をげて好むのは、忠、孝、烈を崇敬する民族性の力い底流からきた性向なのである。

(4)このには預言者の証がなければならない
民族に下された明白な預言者の証として、第一に、この民族は啓示によって、メシヤ思想をもっているという事である。第一イスラエル選民は、預言者たちの証言によって(マラキ四2~5、イザヤ六〇・1~22)、将来メシヤが王としてて王を立て、自分たちを救ってくれるであろうと信じていたし、第二イスラエル選民たちもメシヤの再臨を待ち望みながら、しい信仰の道をんできたのと同じく、第三イスラエル選民たる韓民族も李朝五〇〇年以、この地に義の王が現れて千年王を建設し、世界万邦の朝貢を受けるようになるという預言を信じる中で、そのときを待ち望みつつ苦難の史路程をんできたのであるが、これがすなわち、鄭鑑信仰による韓民族のメシヤ思想である。に新しい王が現れるという預言であるので、執者たちはこの思想を抑し、特に日本帝時代の執者たちは、この思想を抹殺しようとして、書籍を却するなどの弾圧を加えた。また、キリストが入ってきたのち、この思想は迷信として追いやられてきた。しかし、韓民族の心の中に深く刻まれたこのメシヤ思想は、今日に至るまで連綿と受けがれてきたのである。以上のことを知ってみれば、民族が苦悶しつつ待ち望んできた義の王、正道令(神の正しいみ言をもってこられる方という意味)は、すなわち韓に再臨されるイエスにする韓式の名であった。神はいまだ韓国内にキリストが入ってくる前に、将来メシヤが韓に再臨されることを「鄭鑑」でえてくださったのである。そして、今日に至ってこの本の多くの預言が聖書の預言と一致するという事を、多くの者たちが確認するに至っている。
第二に、この民族が信じている各宗の開祖が、すべてこのに再臨するという啓示をその信徒たちが受けているという事である。に、前編第三章において詳述したように、文化圏発展史から見ても、あらゆる宗は一つのキリストに統一されていくという事からして、終末におけるキリストは今まで多くの宗の目的を完成させる最終的な宗でなければならない。したがって、キリストの中心として再臨されるイエスは、そのすべての宗の開祖たちが地上で成就しようとした宗の目的を一括して完成されるのであるから、この再臨主は使命の立場から見て、あらゆる開祖たちの再臨者ともなるのである(前編第五章第二節(四))。したがって、多くの宗において、啓示によって韓に再臨すると信じられているそれらの開祖は、別の人物ではなく、は、将来来られる再臨主ただ一人を指しているのである。すなわち、将来イエスが再臨されることを、仏教では弥勒が、儒では人が、天道では崔水雲が、そして、「鄭鑑」では正道令が現すると、教団ごとに各、異なった啓示を受けてきたのである。
第三に、イエスの韓再臨にする通人たちの神きが雨後の竹の子のように起こっているという事である。使徒行二章17節に、終末においては神のをすべての人に注ぐと約束されたみ言があるが、このみ言どおりの現象が韓民族の中で起きているのである。それゆえに、多くの修道者たちが雑霊界から園級界に至るまでのの層の人たちと接するなかで、それぞれ、主の韓再臨にする明確な啓示を受けているのである。しかし、的な無知によって、いまだにこのような事に少しも耳を傾けようとせず、深い眠りにっている人がいる。それがすなわち、現キリスト界の指導者たちなのである。これは、あたかも、イエス時において、東方の博士や羊飼いたちは、啓示によって、メシヤ降臨にする消息を聞き知っていたにもかかわらず、むしろだれよりも先にこのことを知らなければならなかった祭司長たちや、律法者たちが、的な無知によって、このことを全く知らなかったのと軌を一にするといわなければなるまい。
イエスが「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知のある者や賢い者にして、幼な子にあらわしてくださいました」(マタイ一一25)と言われたのは、時のユダヤ界の指導者層の的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純な信徒たちに天のことを示してくださった恩する感謝のみ言であった。そのときと同時性の時代にたる今日の韓国教界においても、それと同じ事が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末にする天の理の新しい事を、多く啓示によって知らせておられるのである。しかし、彼らがその容を表すれば、職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことにしては、一切表をせずに秘密にしているのが、今日の韓キリスト界の情である。あたかもかつての祭司長や律法者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職の行使に足するだけで、終末にする神の理にしては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事がまたとあろうか。

(5)このであらゆる文明が結されなければならない
に述べたように(前編第三章第五節(一))、人間の面にわたる無知を打開しようとして生じた宗と科、または、精神文明と物質文明が、一つの課題として解明されて初めて、人生の根本問題がみな解かれ、創造理想世界が建設されるようになるのである。ところで、イエスが再臨されてつくらなければならない新しい世界は、科が最高度に達した世界でなければならないから、復帰摂理の的な史路程において達してきたあらゆる文明は、再臨されるイエスを中心とする社で、的に、一時に、その全部が復され、最高度の文明社が建設されなければならない。したがって、有史以、全世界にわたって達してきた宗と科、すなわち、精神文明と物質文明とは、韓を中心として、みな一つの理によって吸融合され、神が望まれる理想世界のものとして結しなければならないのである。
第一に、陸地で達した文明も韓で結しなければならない。したがって、エジプトで祥した古代の大陸文明は、ギリシャ、ロマ、イベリヤなどの半島文明として移動し、その半島文明は再び英の島嶼文明として移動するようになり、この島嶼文明は更に米の大陸文明をつくったのち、日本の島嶼文明へと振りったのであった。この文明の巡は、イエスが再臨される韓で半島文明として終結されなければならない。
第二に、河川と海岸を中心とした文明も韓が面する太平洋文明として結しなければならない。ナイル河、チグリス河、ユフラテス河などを中心として達した河川文明は、ギリシャ、ロマ、スペイン、ポルトガルなどの地中海を中心とした文明として移動したのであり、この地中海文明は、再び、英、米を中心とした大西洋文明として移動したのであり、この文明は、アメリカ、日本、韓をつなぐ太平洋文明として結するようになるのである。
第三に、候を中心とした文明も韓で結しなければならない。候を中心にして見れば、あらゆる生物の活動と繁殖は、春から始まって、夏には繁茂し、秋には結し、冬に至って蓄えるようになるのである。このような春、夏、秋、冬の変転は、年を中心としてのみあるのではなく、一日について見ても、朝は春、は夏、夕方は秋、夜は冬に、各するのであり、人生一代の幼、、老もまた、そのような係にあるのである。史の全期間もこのように進行するのであるが、それは、神がそのような季節的な造化の原則をもって被造世界を創造されたからである。
神が、アダムとエバを創造された時代は、春の季節に相するときであった。したがって、人類の文明は、エデンの温帯文明から始まって、夏の季節に該する熱文明に移りわり、そのつぎには、秋の季節に該する涼文明として移りわったのち、最後には冬の季節に該する寒文明として移りわらなければならなかったのである。ところが、人間は落することによって、野人と化してしまったので、温帯文明をつくることができず、直ちに熱で原始人の生活をするようになったため、エジプト大陸を中心とした熱文明を先につくるようになったのであった。そうして、この文明は、大陸から半島、島嶼へと移されて、涼文明をつくったのであり、これが再びソ連に渡って寒文明をつくるようになったのである。そうして今や、新時代の夜明けとともに、再び新しいエデンの温帯文明が、大きく開かれなければならないのであり、これは、然、すべての文明が結しなければならない韓において成就されなければならないのである。

 

第四節 同時性から見たイエス時と今日

 

イエスの初臨のときと彼の再臨のときとは、理的な同時性の時代である。それゆえに、今日のキリストを中心として起こっているすべての事情は、イエス時のユダヤを中心として起こったあらゆる事情にごく似かよっている。
このような例をげてみるならば、第一は、今日のキリストはユダヤと同じく、教権教会儀式にとらわれている一方、その容が腐敗しているという点である。イエス時の祭司長と律法者たちを中心とした指導者層は、形式的な律法主義の奴隷となり、その心生活が腐敗していたので、良心的な信徒であればあるほど、心きをたすために異端者として排斥されていたイエスに、蜂の群れのようにっていったのであった。このように、今日のキリストにおいても、職者をはじめとする指導層が、その教権教会儀式の奴隷となり、心的に日に日に暗がりの中に落ちこんでいくのである。ゆえに、篤なキリスト信徒たちは、このような環境を離れて、信仰の的な光明を体恤しようとして、なる道と新しい指導者を尋ねて、野山をさまよっているのが態である。
つぎに、今日のキリスト信徒たちも、イエスの初臨のときのユダヤ徒と同じく、イエスが再臨されるならば、彼らがっ先に主を迫害するようになる可能性があるということについては、前のところでに詳しく論じたとおりである。イエスは預言者たちによってもたらされた約のみ言を成就されたのち、その基台の上で新しい時代をつくるための目的をもってられた方であったので、彼は約のみ言のみを繰り返して論ずるだけにとどまらず、新しい時代のための新しいみ言をえてくださったのであった。ところが、祭司長と律法者たちは、イエスのみ言を約聖書の言葉が示す範囲内で批判したため、そこからもたらされるつまずきによって、ついにイエスを十字架に引き渡す結果にまで至ったのである。
これと同に、イエスが再臨される目的も、キリスト信徒たちが築いてきた新約時代の的な救いの理の土台の上に、新しい天と新しい地を建設されようとするところにあるために(二一1~4)、将来彼が再臨されれば、に二〇〇〇年前の昔に語り給うた新約のみ言を再び繰り返されるのではなく、新しい天と新しい地を建設するために必要な、新しいみ言をえてくださるに相違ないのである。しかし、聖書の文字のみにとらわれている今日のキリスト信徒たちは、初臨のときと同じく、再臨主の言行を、新約聖書の言葉が示す範囲内で批判するようになるので、結局、彼を異端者として排斥し、迫害するであろうということは明白な事である。イエスが再臨されるとき、まず多くの苦しみを受けるであろうと言われた理由は、正にここにあるのである(ルカ一七25)。
また、イエスの再臨にする啓示と、再臨されてから下さるみ言を受け入れる場合の子にしても、初臨のときと同じ現象が現れるようになるのである。すなわち、初臨のときに、神はメシヤがられたという知らせを、祭司長や律法者たちにえられず、異邦の占星者や純な羊飼いたちにえられたのであるが、これはあたかも、子が無知であるために、やむを得ず、血統的なつながりをもたない義理の子に相談するというかたちとよく似ているといえよう。また、イエスの再臨にする知らせも、因習的な信仰態度を固守している今日のキリスト指導者たちよりは、むしろ平信徒たち、あるいは、彼らが異邦人として取り扱っている異徒たち、そして、良心的に生きる未信者たちにまず啓示されるであろう。そして、初臨のときにイエスの福音を受け入れた人たちが、選民であったユダヤの指導者ではなく、賤民や異邦人であったように、イエスの再臨のときにも、選民であるキリストの指導者層よりも、むしろ平信徒、あるいは、非キリスト徒たちが、まず彼のみ言を受け入れるようになるであろう。イエスが用意された婚宴に席し得る人が、前もって招待されていた客たちではなく、町の大通りで出い、すぐに連れてこられる人であるだろう、と嘆かれた理由はにここにあったのである(マタイ二二8~10)。
つぎに、再臨のときにおいても、初臨のときと同、天を望んでみだした道でありながら、かえって地獄に行くようになる、そのような信徒たちが大勢いることであろう。祭司長や律法者たちは、神の選民を指導すべき使命を担っているのであるから、メシヤがられたということをだれよりも先に知り、率先してその選民を、メシヤの前に導かねばならなかったはずである。イエスは、彼らがこの使命を完遂することを期待されたので、まず、神殿を訪ねて、だれよりも先に彼らに福音をえられたのであった。しかし、彼らが受け入れなかったので、やむなくガリラヤの海をさまよわれながら、漁夫をもって弟子とされたのであり、そしてまた、主に罪人や取人、そして遊女らの卑しい人接するようになったのであった。そしてついに、祭司長や律法者たちが、イエスを殺害するまでにことが至ったのである。これによって彼らは、神にする逆賊を刑したものと信じ、余生を聖職のために奉仕し、文を暗唱しながら、所得の十分の一を神にささげ、祭典を行って、天の道へと進んでいったのである。しかし、結局彼らが肉体をいで行きついた所は、意外にも、地獄であったのである。不幸にも彼らが天へ行くつもりでみだしたその道が、彼らを地獄へとれてしまったのである。
このような現象が、終末においてもそのとおりに起こるということを知るにつけ、我はだれしも、もう一度自分自身を深く反省せざるを得ないのである。今日の多くのキリスト信徒たちは、各、天の道へと邁進している。しかし、一誤れば、その道は地獄へ通ずる道となってしまうのである。それゆえに、イエスは、終末において、主のみ名をもって鬼を追いだし、あらゆる奇跡を行うほど信仰の篤い聖徒たちに向かって「不法をく者どもよ、行ってしまえ」(マタイ七23)と責めるであろうと言われたのである。このような事を知るようになると、今日のような史の換期に生きている信徒たちほど危な立場に立たされている者たちはいないといえるのである。彼らがもし、イエス時のユダヤ人の指導者たちと同じくその信仰の方向を誤れば、今日までいかに篤な信仰生活をしてきたとしても、それらはみな水泡にしてしまわざるを得ないのである。それゆえに、ダニエルは「賢い者は悟るでしょう」(ダニエル一二10)と語ったのである。

 

第五節 言語混の原因とその統一の必然性

 

人間が落しないで完成し、神をかしらに頂き、みながその肢体となって一つの体のような大家族の世界をつくったならば、この地球上で互いに通じあわない言語が生ずるはずはなかった。人間が、言語が異なるために、お互いに通じることができないようになったのは、結局、落により、神との的な係がちきられるとともに、人間相互間の的な係もまたちきられてしまい、その結果、長い間、互いにかけ離れた地理的環境の中で、各が別れ別れとなって相異なる民族を形成したためであった。また、最初は同一の言語を使っていたノアの子孫たちが、にわかに言語が通じなくなり、混を起こしたという聖書の記があるが、そのいきさつは次のようなものであった。
神 の前で罪を犯したノアの次子ハムの子孫であるカナン族が、サタンの目的を遂げようとしてバベルの塔を高く築きあげた。ところが、天の側にいたセムとヤペテ の種族たちも、この工事に協助していたため、彼らをして、互いに意思を通ずることができないようにし、サタンの仕事に協力できないようにさせるために、神 は彼らの言語を混させてしまわれたのである(創一一7)。
一つの父母のもとにある同じ子孫として、同一の喜怒哀の感情をもっていながら、これを表現する言語が異なるために、互いに通じあうことができないということほど不幸なことはないであろう。それゆえに、再臨の主を父母として頂く、一つの大家族による理想世界がつくられるとするならば、然言語は統一されなければならないのである。サタンの目的を高めようとしてつくられたバベルの塔によって、言語が混乱状態にったのであるから、今度は、蕩減復の原則にって、神のみ旨を高めるための天の塔を中心として、あらゆる民族の言語が、一つに統一されなければならないのである。それでは、その言語はどのの言葉で統一されるのであろうか。その問いにする答えはあまりにも明白である。子供は父母の言葉をえるものである。人類の父母となられたイエスが韓に再臨されることが事であるならば、その方は間違いなく韓語を使われるであろうから、韓語はすなわち、祖語(信仰の母語)となるであろう。したがって、あらゆる民族はこの祖語を使用せざるを得なくなるであろう。このようにして、すべての人類は、一つの言語を用いる一つの民族となって、一つの世界をつくりあげるようになるのである。