第六章 予定論

第一節 み旨にする予定

第二節 万有原力と授受作用および四位基台

第三節 人間にする予定

第四節 予定の根となる聖句の解明

 

古今を通じて、予定する神的論は、信徒たちの信仰生活の実践において、少なからぬ混を引き起こしてきたことは事である。それでは、どうしてこのような結果をもたらしたのかということを、我は知らなければならない。
聖書には、人生の枯盛衰や、幸不幸はもちろん、落人間の救いの在り方から、家の興亡盛衰に至るまで、すべてが神の予定によってなされると解できる聖句が多くある。この例をげれば、ロマ書八章29節 以下に、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中 で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に光をえて下さったのである」とある。また、ロマ書九章15節以下には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」と言われ、ロマ書九章21節には、「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる能がないのであろうか」と言われた。それのみならず、ロマ書九章11節以下に、神は胎中にいるときから、ヤコブを愛し、エサウを憎んで、長子であるエサウは次子であるヤコブに仕えるであろうと言われた。
このように、完全に予定を立てることのできる聖書的な根が多くある。しかし、我は、このような予定を否定する他の聖書的な根も多くあるということを忘れてはならない。例をげれば、創世記二章17節に、人間始祖の落を防ぐために、「取って食べてはならない」と警告されたのを見れば、人間の落は、どこまでも、神の予定からもたらされたものではなく、人間自身が、神の命令にわなかった結果であるということは明らかである。また、創世記六章6節には、人間始祖が落してしまったので、神は人間をつくったことを悔いて嘆息なさったという記があるが、もしも、人間が神の予定によって落したとすれば、神御自身の予定どおりに落した人間を前にして、嘆かれるはずはないのである。また、ヨハネ福音書三章16節に、イエスを信ずれば、だれでも救いを受けると言われたが、このみ言は、すなわち、滅ぼされるように予定された人は一人もいないということを意味するのである。
だれでもよく知っている聖句、マタイ福音書七章7節に、「求めよ、そうすれば、えられるであろう。せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われたみ言を見れば、すべてのことが神の予定のみによってなされるのではなく、人間の努力によっても左右されるということが分かるのである。もしすべてのみ旨の成就が、神の予定によってのみなされるのであれば、何のために人間の努力を調する必要があるであろうか。ヤコブ書五章14節に、病んでいる者は祈ってもらうがよいというみ言があるのを見れば、病むことも、また、治ることも、やはり、みな神の予定のみによってなされるのではないということが分かる。もし、すべてのことが、神の予定の中で、避けることのできない運命として決定されるのだとすれば、人間は苦して祈する必要もないであろう。
従来の予定をそのまま認めれば、祈とか、道とか、慈善行など人間のすべての努力は、神の復帰摂理にとって何らの助けにもならないし、全く無意味なことといわなければなるまい。なぜならば、絶者たる神が予定されたことであれば、それもやはり、絶的であるがゆえに、人間の努力によっては、更できないからである。
このように、予定をめぐって論があり、そしてそのどちらも、自の正しさを裏付ける聖書の文字的な根が十分にあるのである。それならば、このような問題が、原理によっていかに解決できるのだろうか。予定論にする問題を、我は次のように分けて考えてみることにしよう。

 

 

第一節 み旨にする予定

 

神のみ旨にする予定を論ずるために、は、「み旨」とは何であるかということについて、先に調べてみよう。神は人間の落によって、創造目的を完成することができなかった。したがって、落した人間たちにして理される神のみ旨は、あくまでも、この創造目的を復することにある。言い換えれば、この「み旨」は、復帰摂理の目的の完成をいうのである。
つぎに、我は神がこのようなみ旨を予定されて、これを成就なさるということを知らなければならない。神は人間を創造されて、創造目的を完成するみ旨を立てられたが、人間の落により、そのみ旨を達成できなかったので、神はそのみ旨を完遂なさるために、それを再び予定して、復帰摂理をされるのである。
その際、神はどこまでも、このみ旨を善として予定して達成されなければならないのであって、として予定して成就し給うことはできない。なぜならば、神は善の主体であるので、創造目的も善であり、したがって、復帰摂理の目的も善で、その目的を成就する「み旨」もまた善でなければならないからである。ゆえに、神は創造目的を成し遂げるのにそれにして反になるとか、障害となるものを予定なさることはできない。そういうわけで、人間の落とか、落人間にする審判とか、あるいは、宇宙の滅亡などを予定なさることは全くできないのである。もしも、このようなの結果さえも、神の予定から生ずる必然的なものであるとすれば、神は善の主体であるということはできない。また、神御自身が予定したとおりになったの結果にして、後悔してはならないのである。神は落した人間を見て嘆息された(創六6)。また、不信仰にったサウル王を見て、サウルを王として選んだことを後悔された(サムエル上一五11)。これは、それらがみな予定によってなった結果ではないことを明らかに示している。の結果は、みな人間自身がサタンの象になって、その責任分担を果たさなかったことによって起こるのである。
では、神が創造目的を復されるみ旨を予定されるにたって、どの程度にまで予定されて理なさるのだろうか。神は唯一であり、永遠であり、不であり、絶者であられるので、神の創造目的もやはりそのようにならざるを得ない。したがって、創造目的を再び完成させようとする復帰摂理のみ旨も唯一であり、不であり、また絶的でなければならない。それゆえ、このみ旨にする予定も、また絶的であることはいうまでもない(イザヤ四六11)。このように、み旨を絶的なものとして予定されたのであるから、もしこのみ旨のために立てた人物がそれを完成できなかったときには、神はその代理として、他の人物を立ててでも、最後まで、このみ旨を理していかなければならないのである。
その例をげれば、アダムを中心として創造目的を完成させようとしたみ旨は達成できなかったが、このみ旨にする予定は絶的なので、神はイエスを後のアダムとして降臨させて、彼を中心としてみ旨を復させようとされた。そればかりでなく、ユダヤ人の不信によって、このみ旨がまた完成できなかったので(前編第四章第一節(二))、イエスは再臨されてまでも、このみ旨を必ず完遂することを約束なさったのである(マタイ一六27)。また、神はアダムの家庭で、カインとアベルを中心とした理において「メシヤのための家庭的な基台」を立てさせようとされた。しかし、カインがアベルを殺害することによって、このみ旨は成し遂げられなかった。ゆえに、その代理にノアの家庭を立てて理 されたのである。更に進んでノアの家庭が、またこのみ旨を完成できなかったとき、神はその身代わりにアブラハムを立ててでも、どうしてもそのみ旨を完成な さらなければならなかった。神はまた、アベルによって成就できなかったみ旨を、その身代わりとしてセツを立てて成し遂げようとされたのであり(創四25)、また、モセによって成し遂げられなかったみ旨を、その身代わりにヨシュアを立てて、成就させようとされた(ヨシュア一5)。そして、イスカリオテのユダの反逆によって完成できなかったみ旨は、その身代わりとしてのマッテヤを選んで成し遂げようとされたのであった(使徒一26)。

 

第二節 み旨成就にする予定

 

創造原理によって、に明らかにしたように、神の創造目的は、人間がその責任分担を完遂することによってのみ完成できるようになっている。したがって、この目的を再び成就させようとする復帰摂理のみ旨は、絶的なものなので、人間は関与できないが、そのみ旨の成就にたっては、あくまでも、人間の責任分担が加担されなければならない。それゆえに、アダムとエバを中心とする神の創造目的は、事上、善の果を取って食べないで、彼らに任された責任分担を、彼ら自身が完遂することによってのみ、完成されるようになっていた(創二17)。したがって、帰摂理の目的を完成されるにたっても、その使命を担した中心人物が、その責任分担を遂行することによってのみ、そのみ旨は成就されるのである。イエスも、救いの理の目的を完遂されるためには、ユダヤ人たちが彼を絶に信じわなければならなかったが、彼らの不信仰によって、責任分担を全うできなかったので、このみ旨成就はやむを得ず、再臨のときまで延長されなければならなかったのである。
それでは、神はみ旨成就にして、どの程度に予定されたのだろうか。に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶的であるが、み旨成就は、どこまでも相的であるので、神がなさる九五パセントの責任分担に、その中心人物が担すべき五パセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担五パセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、一〇〇セントに該するということを知らなければならない。これにする例をげれば、アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善を知る果を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。ノアを中心とした復帰摂理も、ノアが箱舟をつくることに忠誠をくし、その責任分担を果たすことによってのみ、そのみ旨が完遂されるように予定されたのであった。また、イエスの救いの理も、落人間が彼をメシヤとして信奉し、責任分担を果たすことによって、初めて、そのみ旨が完成されるように予定されたのであった(ヨハネ三16)。しかし、人間たちがこれらの小さな責任分担をも全うできなかったがゆえに神の復帰摂理は延長されたのである。
また、ヤコブ書五章15節には、「信仰による祈は、病んでいる人を救」うと記されており、マルコ福音書五章34節には「あなたの信仰があなたを救った」と言われたみ言がある。マタイ福音書七章8節には、「すべて求める者は得、す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」と言われた。このような聖句はみな、人間自身の責任分担遂行によってのみ、み旨が完成されるように予定されているという事を証したのである。そうして、これらすべての立場において人間が担した責任分担は、神がその責任分担として担された苦と恩賜に比べていかに微小なものかを知ることができる。また理における中心人物たちが、彼らの責任分担を全うしなかったがゆえに、復帰摂理を延長させてきたという事を知るとき、この微な責任分担が、人間自身においては、いかに大きく、難しいことであったかが推察できるのである。

 

第三節 人間にする予定

 

アダムとエバが、善を知る果を取って食べるなと言われた神のみ言を守り、自分たちの責任分担を果たしたならば、善の人間始祖となることができたのであった。したがって、神はアダムとエバが人間始祖となることを、絶的なものとして予定なさることはできないのである。ゆえに、落した人間も、それ自身の責任分担を果たして、初めて神が予定された人物となることができるのであるから、神は彼らがいかなる人物になるかということを、絶的なものとして予定なさることはできないのである。
では、神は人間をどの程度にまで予定なさるのだろうか。ある人物を中心とした神の「み旨成就」においては、人間自身があくまでもその責任分担を果たさなければならないという、必須的な要件がついている。つまり、神がある人物を、ある使命者として予定されるにたっても、その予定のための九五パセントの神の責任分担にして、五パセントの人間の責任分担の遂行を合わせて、その人物を中心とした「み旨」が一〇〇セント完成する、というかたちで、初めてその中心人物となれるように予定されるのである。それゆえ、その人物が自分の責任分担を全うしなければ、神が予定されたとおりの人物となることはできないのである。
例をげれば、神はモセを召命なさるとき、彼が自分の責任分担を果たした場合にのみ、選民をカナンの福地まで導くことができる指導者となるように予定された(出エ三10)。けれども、彼がカデシのメリバで磐石を二度打ったことによって神のみ意に逆らい、自分の責任を果たせなかったとき、その予定は達成されずに、目的地に向かっていく途中で死んでしまった(民〇・7~12、二〇・24、二七14)。また、神がイスカリオテのユダを選ばれるときも、彼が忠誠をくすことによって、自身の責任分担を果たして、初めて、イエスの弟子になれるように予定されたのである。しかし、彼が自身の責任を全うできなかったとき、その予定は崩れ、彼はかえって、反逆者となってしまったのである。また、神がユダヤ人たちを立てられるときも、彼らがイエスを信奉して、任された責任分担を果たした場合にのみ、光の選民となれるように予定された。しかしながら、彼らがイエスを十字架につけたので、この予定は覆され、その民族は衰退してしまったのである。
つぎに、神の予定において、復帰摂理の中心人物となり得る件はいかなるものであるかということについて調べてみることにしよう。神の救いの理の目的は、落した被造世界を、創造本然の世界へと完全に復することにある。ゆえに、その時機の差はあっても、落人間はだれでもみな、救いを受けるように予定されているのである(ペテロ9)。ところが、神の創造がそうであるように、神の再創造理である救いの理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的にめられていくのである。神の理が、すべてこのようになっているので、救いの理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。
それでは、このように、召命を受けた中心人物は、いかなる件を備えるべきであろうか。彼はまず、復帰摂理を担し た選民の一人として生まれなければならない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。同じ程度に善の功績が多い祖先の子孫で あっても、その個体がみ旨を成就するのに必要な天稟を先天的にもつべきであり、また、同じく天稟をもった人間であっても、このための後天的な件がみな具備されていなければならない。さらに、後天的な件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場所に適合する個体を先に選ばれるのである。

 

第四節 予定の根となる聖句の解明

 

は、神の予定にするいろいろの問題について解明した。しかし、次に解くべき問題は、本章の序言においてげた聖句のように、すべてが、神の絶的な予定だけでなされるように記されている聖句を、いかに解明すべきかということなのである。まず、ロマ書八章29節から30節に記されているように、「神はあらかじめ知っておられる者たちを……あらかじめ定め……あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に光をえて下さる」というみ言を解明してみよう。神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る件(本章第三節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めて神が下さる華に浴することができる。それゆえ、神が下さる華も人間が責任分担を果たすことによってのみ、受けることができるように予定されるのである。ただ、聖句には人間の責任分担にするみ言が省略されているために、それらが、ただ、神の絶的な予定だけでなされるように見えるのである。
つぎに、ロマ書九章15節から16節には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」との記がある。に解明したように、復帰摂理の目的を完成するためにどんな人物が一番適合するかということは、神だけがあらかじめ知っていて召命なさるのである。このような人物を選んで、哀れみ、あるいは慈しむのは、神の特であり、人間の意志や努力によってできるのではない。したがって、この聖句は、どこまでも、神の能と恩寵とを調するために下さったみ言なのである。
また、ロマ書九章21節には、「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる能がないのであろうか」と言われた。神が人間にして、その創造性に似るようにし、被造世界の主人として立て、一番愛するための件として、人間の責任分担を立てられたことはに述べた。ところが、人間はこの件を自ら犯して落してしまった。それから落人間は、あたかも屑のように捨てられた存在となったのである。したがって、たとえ神がこのような人間をいかに取り扱おうとも、決して不平を言ってはならないというみ意を示するために下さった聖句である。
ロマ書九章10節から13節には、神が胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろうと言われた。エサウとヤコブは腹中にあって、いまだ善ともとも、いかなる行動の結果も現すことができなかったにもかかわらず、神はエサウを憎み、ヤコブを愛したという理由はどこにあるのだろうか。これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった。このことにして詳しくは、後編第一章の「アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理」において明するが、エサウとヤコブをとして立たせたのは、彼らを各、カインとアベルの立場に分立させて、アベルの立場にいるヤコブが、カインの立場にいるエサウを屈伏させることによって、アダムの家庭で、カインがアベルを殺害して達成できなかった長子の嗣業復のみ旨を蕩減復させるためであった。したがって、エサウはカインの立場にあるので、神の憎しみを受ける立場におり、反にヤコブはアベルの立場におり、神の愛を受けられる立場であったから、このように言われたのである。
しかし、神が彼らを際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。事、 エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。逆に、いかに愛を受けられる立場に 立たせられたヤコブであっても、もし、彼が自分の責任分担を完遂できなかったならば、彼は神の愛を受けることができないのである。
このように、帰摂理の目的を完成するにたって、神の責任分担と人間の責任分担との間には、果たしてどのような係があるかを知らずに、すべての「み旨成就」を、神の単独行使として見てきたところに誤りが生じてくるのであり、カルヴィンのように、頑固な予定を主張する人が出てくるのである。そしてまた、それが今日に至るまで、長い期間にわたって、そのまま認められてきてしまったのである。