第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理

第一節 サタン屈伏の典型的路程

第二節 モセを中心とする復帰摂

第三節 イエスを中心とする復帰摂

 

アモス書三章7節に、「主なる神は、そのしもべである預言者にそのれた事を示さないでは、何事をもなされない」と記されているみ言のように、聖書には、神の救いの理にする多くの秘密がされているのである。しかし、人間は神の理にする原理を知らなかったので、聖書を見ても、そのれた意味を悟ることができなかった。聖書においては、一人の預言者の生涯にする記を取ってみても、その内実は、純にその人の史というだけにとどまるものではなく、その預言者の生涯を通して、落人間がまなければならない道を表示してくださっているのである。ここでは特に、神が、ヤコブとモセを立てて復帰摂理路程をませ、それをもって、将来、イエスがられて、人類救のためにまねばならない理を、どのようなかたちで表示してくださったかということについて調べてみることにする。

 

 

第一節 サタン屈伏の典型的路程

(一)イエスの典型路程としてヤコブ路程とモセ路程とを立てられた理由
(二)ヤコブ路程を見本としていたモセ路程とイエス路程

 

イサクの家庭を中心とする復帰摂理において、「体基台」を立てる中心人物であったヤコブが、アベルの立場を確立して、「落性をぐための蕩減件」を立てるために、サタンを屈伏してきた全路程は、ヤコブによるその象路程を、形象的にまなければならないモセ路程と、それを体的にまなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった。そして、この路程は、イスラエル民族と全人類が、理の目的を成就するために、サタンを屈伏させながらまなければならない、表示路程でもあるのである。

(一)イエスの典型路程としてヤコブ路程とモセ路程とを立てられた理由
帰摂理の目的は、究極的には人間自身がその責任分担として、サタンを自然屈伏させ、それを主管し得るようになることによって成就されるのである。イエスが、人間祖先として、メシヤの使命を負うてられたのも、サタン屈伏の最終的路程を開拓し、すべての信徒たちをその路程にわせることによって、サタンを自然屈伏させるためである。
ところが、神にも屈伏しなかったサタンが、人間祖先としてられるイエスと、その信徒たちに屈伏する理由はさらにないのである。それゆえに、神は人間を創造された原理的な責任を負われ、ヤコブを立てることによって、彼を通して、サタンを屈伏させる象路程を、表示路程として見せてくださったのである。
神は、このように、ヤコブを立てられ、サタンを屈伏させる表示路程を見せてくださったので、モセはこの路程を見本として、その形象路程をむことにより、サタンを屈伏させることができたのである。そしてまた、イエスは、ヤコブ路程をいたモセ路程を見本として、その体路程をむことにより、サタンを屈伏させることができたのであり、今日の信徒たちもまた、その路程にってみ、サタンを屈伏させることによって、それを主管するようになるのである。セが、自分のような預言者一人を、神が立てられるであろうと言ったのは(使徒三22)、モセと同じ立場で、モセ路程を見本として、世界的カナン復理路程をまなければならないイエスを表示した言葉である。そして、ヨハネ福音書五章19節に、「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」と記されているのは、とりもなおさず、イエスは、神が、にモセを立てて見せてくださった表示路程を、そのまままれているということを言われたのである。ゆえにセは、次にられるイエスの模擬者となるのである(使徒三22)。

(二)ヤコブ路程を見本としていたモセ路程とイエス路程
ヤコブ路程は、とりもなおさず、サタンを屈伏してきた路程である。そして、サタンを屈伏させる路程は、サタンが侵入したその路を、逆にたどっていかなければならない。そこで今ここに、我は、ヤコブ路程を見本としてまれた、モセ路程とイエス路程について調べてみることにしよう。

①人間は、元、取って食べてはならないと言われた神のみ言を、命を懸けて守るべきであった。しかし天使長からの試練に勝つことができないで、落してしまったのである。それゆえに、ヤコブがハランから妻子と財物を取り、カナンにって、「メシヤのための基台」を復し、家庭的カナン復完成者となるためには、サタンと命を懸けてう試練に勝利しなければならなかったのである。ヤコブが、ヤボク河で天使と命を懸けてい、勝利することによって、イスラエルという名を受けたのも(創三二2528)、このような試練を越えるためのものであった。神は天使をサタンの立場に立てられ、ヤコブを試練されたのである。しかし、これはあくまでも、ヤコブを不幸にれようとしたものではなく、彼が、天使にする主管性を復する試練を越えるようにして、アベルの立場を確立させ、彼を家庭復完成者として立てられるためであった。天使がこのような試練の主体的な役割を果たすことによって、天使世界もまた、復されていくのである。セも、イスラエルの民族を導いてカナンに入り、民族的カナン復完成者となるためには、神が彼を殺そうとする試練に、命を懸けて勝利しなければならなかったのであった(出エ四24)。もし、人間が、このような試練を神から受けないで、サタンから受けて、その試練に負けたときには、サタンに引かれていくようになるのである。それゆえに、神の方から試練をするということは、どこまでも、神が人間を愛しているからであるということを、我は知らなければならない。イエスも、人類を地上天に導くことによって、世界的カナン復完成者となるためには、荒野四十日の試練において、命を懸けてサタンとい、それに勝利しなければならなかったのである(マタイ四1~11)。

②人間の肉とにサタンが侵入して落性が生じたのであるから、ヤコブはこれをぐための件を立てなければならなかった。それゆえに、ヤコブは、肉ととを象する、パンとレンズ豆のあつものをえて、エサウから長子の嗣業(家督)を奪うことによって、「落性をぐための蕩減件」を立て、アベルの立場を復しなければならなかったのである(創二五34)。この路程と対応するために、モセ路程においても、イスラエル民族に、肉ととを象する、マナとうずらとをえてくださり、神にする感謝の念と、選民意識とをくさせることによって、彼らをモセにわせ、「落性をぐための民族的蕩減件」を立たせようとされたのであった(出エ一六1314)。
イエスが、「……あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった……人の子の肉を食べず、また、その血をまなければ、あなたがたのに命はない」(ヨハネ六4853)と言われたのは、イエスも、この路程を見本としてまれたということを意味するのである。これは、すべての落人間たちが、洗ヨハネの立場におられる(本章第三節(二)(1))イエスを信じ仕えることにより、肉共に彼と一体となり、「落性をぐための世界的蕩減件」を立て、彼をメシヤとして侍るところまで行かなければ、創造本性を復することができないということを意味するのである。

③人間は落により、その死体までもサタンの侵入を受けたのであった。ところがヤコブは、祝福を受けて、聖別された体であったから、彼の死体も、サタンとって分立したという件を立てるため、その死体に、四十日間、防腐を塗ったのである(創五〇・3)。したがって、この路程を見本としていたモセも、その死体をもってサタンとったのであり(ユダ9)、またイエスも、その死体をめぐって問題が起きたのであった(マタイ二八1213)。

④人間始祖は、落により、その成長期間において、サタンの侵入を受けてしまった。それゆえ、これを蕩減復するために、次のようなその期間を表示するを立てるための理をなさるのである(後編第三章第二節(四))。すなわち、ヤコブがハランからカナンに復するときに、サタン分立の三日期間があり(創三一22)、セが民族を導いて、エジプトからカナンに復するときにも、やはりこのような三日期間があり(出エ五3)、また、ヨシュアも、この三日期間をたのち、初めてヨルダン河を渡ったのである(ヨシュア三2)。そして、イエスの的世界カナン復路程においても、サタン分立の墓中三日期間があったのである(ルカ一八33)。
サタンに奪われたノアからヤコブまでの十二代の的な蕩減件を、ヤコブ一代において的に蕩減復するために、ヤコブに十二子息がいた(創三五22)。ゆえに、セのときにも、十二部族があったのであり(出エ二四4)、イエス路程においても、十二弟子がいたのである(マタイ一〇・1)。また、七日の創造期間に侵入したサタンを分立する蕩減件を立てるため、ヤコブのときには、七十人家族が(創四六27)、セのときには、七十人長老が(出エ二四1)、そして、イエスのときには、七十人門徒が、各その路程の中心的な役割を果たしたのであった(ルカ一〇・1)。

⑤杖は、不義を打ち、真実なる道へと導き、人の身代わりとして身を支えるものの表示物で、将来来られるメシヤを象したのである(本章第二節(二)(2))。したがって、ヤコブが、このような意義をもっている杖をついて、ヨルダン河を渡り、カナンの地に入ったということは(創三二10)、将来落人間が、メシヤを捧持して不義を打ち、彼の導きを受け、彼をることによって、罪世界を越え、創造理想世界に入るということを、見せてくださったのである。それゆえに、セも杖を手にして、イスラエル民族を導いて、紅海を渡ったのであり(出エ一四16)、イエスも彼自身を表示するの杖によって、この苦海の世界を渡り、神の創造理想世界へと全人類を導いていかなければならなかったのである(27一二5)。

⑥エバの犯罪が罪の根をつくり、その息子カインがアベルを殺すことによって、そのを結ぶようになった。このように、母と子によってサタンが侵入し、罪のを結んだのであるから、蕩減復の原則によって、母と子が、サタンを分立しなければならないのである。したがって、ヤコブが祝福を受けて、サタンを分立し得たのも、その母親の積極的な協助があったればこそである(創二七43)。セもまた、その母親の協助がなかったならば、彼が死地からして、神の目的のために仕えることはできなかったはずである(出エ二2)。そして、イエスのときにも、また、彼を殺そうとしたヘロデ王を避け、彼を連れてエジプトに避難するという、その母親の協助があったのである(マタイニ13)。

⑦復帰摂理の目的を達成する中心人物は、サタンの世界から神の世界へと復する路程をまなければならない。それゆえに、ヤコブはサタンの世界であるハランからカナンへ復する路程をいたのであり(創三一~三三)、セは、サタン世界であるエジプトから、祝福の地カナンに復する路程をいた(出エ三8)。そしてまたイエスも、この路程をまれるために、生まれてすぐエジプトに避難したのち、再びるという過程をなければならなかったのである(マタイ二13)。

⑧復帰摂理の最終の目的は、サタンを完全に滅ぼしてしまうところにある。ゆえに、ヤコブは、偶像を樫の木の下に埋めたのであり(創三五4)、セも、金の子牛の偶像をこなごなにいて、それを水の上にまき、イスラエル民族にませたのであった(出エ三二20)。またイエスは、そのみ言の能をもって、サタンを屈伏させ、この罪世界を滅させなければならなかったのである(前編第三章第三節(二)(2)照)。

 

第二節 セを中心とする復帰摂

(一)モセを中心とする復帰摂理の概観
(二)モセを中心とする民族的カナン復路程
(三)モセ路程が見せてくれた

 

(一)モセを中心とする復帰摂理の概観
セを中心とする復帰摂理は、アブラハムを中心とする復帰摂理においてに立てられた「メシヤのための基台」の上で達成されなければならないのであるが、「信仰基台」と「体基台」とを蕩減復して、「メシヤのための基台」をつくらなければならないという原則は、彼においても、何ら異なるところはなかったのである。なぜなら、その理を担する中心人物が代わったならば、その人物自身もそれと同じ責任分担を改めて完遂しなければ、復帰摂理のみ旨を承することができないからであり、またその理の範が、家庭的な範から民族的な範へと大されたためであった。しかし、モセを中心とする復帰摂理においては、次に述べるように、その基台をつくるための蕩減件の容が、以前のそれと比べて異なるところが多いのである。

(1)信仰基台
①信仰基台を復する中心人物
アブラハムの象徴献祭の失敗によって生じた、その子孫たちのエジプト苦役四〇〇年期間が終わってのち、イスラエル民族がカナンの福地に復する路程において、「信仰基台」を復する中心人物は、モセであった。ここで、我はモセがこの「信仰基台」を、どのようにして立てたかということを知る前に、復帰摂理から見たモセの位置について詳しく調べ、モセ以前の理路程において、「信仰基台」を復しようとした他の人物たち、すなわち、アダム、ノア、アブラハムなどと比べて、モセの異なる点が何であったかということについて、調べてみることにしよう。
その第一はモセが神の代理となり、神として立てられたということである。それゆえに、出エジプト記四章16節を見れば、神はモセにイスラエルの預言者アロンの前で、「あなたは彼のために、神に代るであろう」と言われ、また、同じ出エジプト記七章1節では、「見よ、わたしはあなたをパロにして神のごときものとする」と言われているのである。
第二に、モセは、将来来られるイエスの模擬者であった。に論じたとおり、神はモセをアロンとパロの前で、神の代理として立てられたのである。ところが肉身をつけた神は、イエス一人に限られるため、神がモセを神の代理として立てられたというみ言は、とりもなおさず、モセを出エジプト路程において、イエスの模擬者として立てられたということを意味するものとしか考えようはないのである。このようにセは、イエスの模擬者として、将来イエスがまれる路程を、そのとおり、先にむことによって、あたかも、洗ヨハネが、イエスの道を直くしなければならなかったように(ヨハネ一23)、彼もイエスが将来歩まれる道を、前もって開拓したのであった。それでは、モセがこの路程をいかにんだかということにして、調べてみることにしよう。
セは、「メシヤのための基台」をつくったヤコブの子孫であって、復帰摂理時代の史を担した中心人物であったばかりでなく、将来イエスがられたときまなければならない、ヤコブの典型路程を、形象的にいたのである。そしてまた、モセは、ヤコブ家庭がエジプトに入る路程で、ヨセフがつくった基台の上に立っていたのである。ところが、ヨセフもまた、一人のイエスの模擬者であった。ヨ セフはヤコブの天の側の妻として立てられたラケルが生んだ子であり、またヤコブのサタン側の妻として立てられたレアが生んだ息子たちの末の弟であった。そ れゆえに、ヨセフはアベルの立場にいたのであるが、しかし、カインの立場にいたその兄たちが、彼を殺そうとしたのである。ところが、辛うじて死を免れ商人 にられたことから、先にエジプトに入るようになったのであった。そして、彼が三十になりエジプトの理大臣になったのち、彼が幼いときに天から夢の中で啓示してくださった示のとおり(創三七5~11)、その兄たちと父母とがエジプトを訪ねてきて彼に屈伏した理路程の基台の上で、イスラエルのサタン分立のためのエジプト苦役路程が始まった。ヨセフのこのような路程は、将来イエスがられて、苦難の道を通じて、三十で王の王としてサタン世界に君臨されたのち、全人類はいうまでもなく、その祖先たちまでも屈伏させ、サタンの世界から分立して天の側に復するということを、見せてくださったのである。このようなヨセフの全生涯は、とりもなおさず、イエスの模擬者としての道を行くみであった。
また、セの生い立ちと死も、まさしくイエスのその表示路程であったのである。セは、生まれたときは、パロ王の手によって殺されるよりほかはない立場にあったのであるが、その母親が彼をして育てあげたのち、パロの宮中に入り、敵のの中で、怨讐を越えて安全に成長したのであった。これと同じく、イエスも、生まれるや否や、ヘロデ王の手により、殺されるほかはない立場にってしまったので、その母親が彼を連れてエジプトに逃れ、れて育てあげたのちに、再びヘロデ王の統治圏内り、敵のの中で安全に成長されたのである。そしてまた、セが死んだのち、その死体の行方を知る人がいなかったということも(申命三四6)、イエスの死体もそのようになるということにする一つの模型であった。
そればかりでなく、セの民族的カナン復路程は、まさしくそのまま、次に詳しく記されているように、将来イエスがられてまれる世界的カナン復路程の典型であったのである。このように、モセがイエスの模擬者であったという事は、申命記一八章18節から19節に、神がモセのような預言者一人(イエス)を立てると預言され、だれでも彼の言葉に聞きわない者は罰するであろうと言われたそのみ言を見ても、十分に理解することができる。そしてまた、ヨハネ福音書五章19節を見れば、イエスは、父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができないと言われた。このみ言もまた、神がモセをして、将来イエスが行われることを、前もって見せてくださったということを意味するのである。

②信仰基台を復するための件物
セは、に論じたように、モセ以前の理路程において、「信仰基台」を復してきた他の中心人物たちとは、別の立場に立っていた。それゆえに、モセは、アベルとか、ノアとか、あるいはアブラハムのように、象徴献祭をしなくても、神のみ言を中心として、「四十日サタン分立基台」だけを立てれば、「信仰基台」を蕩減復することができたのである。その理由をげれば、まず第一に、モセは、アベル、ノア、イサクなどが、三次にわたる象徴献祭を成功させることにより、象徴献祭による理を完了した基台の上に立っていたからである。
第二には、人間始祖が落して、「信仰基台」を立てるための神のみ言を失ったので、落人間は、神のみ言を直接に受けることができなくなった。そのため、み言の代わりの件として立てられたのが、その供え物なのである。ところがモセのときに至ると、供え物を件物として立てて「信仰基台」を復した、復基台理時代は過ぎさり、再び神のみ言に直接にし得る、復帰摂理時代となったため、「信仰基台」のための「象徴献祭」は、必要ではなくなるのである。
第三に、アダムの家庭を中心とした理が、長い史の期間をかけて延長されるにい、サタンが侵入して延長されたその理的な期間を、蕩減復する件を立てなければならなかった。ところが、ノアが箱舟をもって「信仰基台」を立てるためには、「四十日サタン分立基台」が必要であった。そして、アブラハムも、四〇〇年期間を蕩減復する「四十日サタン分立基台」の上に立ったのち、初めて、「信仰基台」を立てるための「象徴献祭」をささげるようになったのである。また、イスラエル民族が、エジプトにおいて、四〇〇年間苦役するようになったのも、「四十日サタン分立基台」を蕩減復することにより、アブラハムの供え物の失敗によってサタンの侵入を受けたその「信仰基台」を蕩減復するためであった。このように帰摂理時代においては、「四十日サタン分立基台」の上で、供え物の代わりに神のみ言を中心として立つことができさえすれば、それをもって「信仰基台」を復するようになっていたのである。

(2)体基台
基台理時代においては「家庭的な体基台」を立てる理をなさった。しかし、復帰摂理時代になると、その次元が上がって、「民族的な体基台」を立てる理をなさるようになるのである。ところで、「民族的な信仰基台」を復するにたって、モセは神の身代わりとなるので(出エ四16、七1)、イエスと同じ立場に立つことになる。それゆえモセは、イスラエル民族にしては、父母の立場に立っていたのである。また一方、モセは、イエスに先立ってその道を開拓すべき使命を担った預言者でもあったので、その子女の立場にも立っていたのであった。したがって彼は、「民族的な体基台」を立てるべき中心人物として、アベルの立場にもまた立たなければならなかったのである。
アベルは、アダムの代わりに、父母の立場で祭したので、その祭に成功することにより、彼はアダムが立てなければならなかった「信仰基台」とともに、「祭」のためのアベル自身の立場をも確立することができたのであった。これと同一の原理により、そのときのモセも、父母でもあり、また子女でもあるという二つの立場に立っていたために、彼もまた、父母の立場で「信仰基台」を蕩減復するようになれば、同時に彼は、子女の立場で「祭」をするためのアベルの位置を確立することができたのである。
このようにして、セがアベルの位置を確立したのち、イスラエル民族がカインの立場で、モセを通じて「落性をぐための民族的な蕩減件」を立てるならば、そこに「体基台」はつくられるのであった。

(3)メシヤのための基台
セが「民族的な信仰基台」を蕩減復して、モセを中心とするイスラエル民族が、「民族的な体基台」を蕩減復すれば、それがすなわち、「メシヤのための民族的基台」となるのである。そして、イスラエル民族が、その基台の上に、将来来られるメシヤによって重生され、原罪をいで、神と心情的に一体となることにより創造本性を復すれば、「完成体」となるようになっていたのである。

(二)モセを中心とする民族的カナン復路程
セがサタンの世界であるエジプトから、イスラエルの選民を奇跡をもって導きだし、紅海を渡り、荒野を巡って、神が約束された土地であるカナンに向かう路程は、将来、イエスがこの罪世界において、第二イスラエルであるキリスト信徒を奇跡をもって導き、この罪世界の苦海を渡り、命の水が乾いた砂漠を巡って、神が約束された創造本然のエデンに復するその路程を、先に見せてくださったことにもなるのである。また、モセを中心とする民族的カナン復路程が、イスラエル民族の不信によって、三次にわたって延長されたように、イエスを中心とする世界的カナン復路程も、ユダヤ人たちの不信によって、三次にわたって延長されたのであった。を避けるために、ここでは、モセ路程とイエス路程とを細密に照した明は省くことにする。しかしこれは、本節と次の節とを照してみることによって明らかにされるのである。

(1)第一次民族的カナン復路程
①信仰基台
イスラエル民族が、四〇〇年間をエジプトで苦役することにより、アブラハムの象徴献祭の失敗によって招された、民族的な蕩減期間は終わったのである。ここにおいて、モセがイスラエル民族を導いて、「信仰基台」を復する人物となるためには、民族的な蕩減期間である四〇〇年を、再び個人的に蕩減することにより、「四十日サタン分立の基台」を立てなければならなかった。モセは、この目的とともに、落前のアダムの「信仰基台」のために立てなければならなかった四十を蕩減復するために(後編第三章第二節(四))、サタン世界の中心であるパロの宮中に入り、四十年を送らなければならなかったのである。
ゆえに、セは、他人が知らないうちにその乳母として立てられた母親から、選民意識に燃える育を受けながら、パロ宮中生活を送ったのち、選民の血統にする志操と忠節とをえず、パロ宮中で、つかの間の罪の享にふけるよりは、むしろ、神の民と共に、苦難を受けることを喜びとして、宮中から出してしまったのであった(ヘブル一一2427)。このようにセは、パロ宮中生活の四十年をもって「四十日サタン分立基台」を立て、信仰基台を蕩減復したのである。

体基台
セは、「信仰基台」を立てることによって、同時に、に述べたような「落性をぐための民族的な蕩減件」をつくるのに必要な、アベルの位置をも確立していたのである。ゆえに、カインの立場にいたイスラエル民族が、彼らの父母の立場であると同時に、子女としてのアベルの立場にもいたモセに、信仰を通じて順に屈伏し、彼から神のみ旨を承することによって、善を繁殖することができたならば、そのときに「落性をぐための民族的な蕩減件」を立て、「民族的な体基台」を蕩減復するようになっていたのである。イスラエル民族が、このようにモセにってエジプトを出し、カナンの福地に入る期間は、すなわち、彼らがこの「体基台」を立てるための期間となるのである。
神は、モセがエジプト人を打ち殺すことをもって「出のための理」をされた。セは、自分の同胞が、エジプト人によって虐待されるのを目し、火のように燃えあがる同胞愛を抑えることができず、そのエジプト人を打ち殺してしまったのである(出エ二12)。事これは、神が御自分の民の惨状を御になり(出エ三7)、憤懣やるかたない御心情を表示されたものでもあった。それゆえに、このようなモセを中心として、イスラエル民族が一つになるかならないかということは、彼らがモセにって砂漠を横断するカナンの復路程を、成功裏に出できるか否かを決定する重大な問題であったのである。
神の選ばれたモセが、このようにエジプト人を打ち殺したということは、第一に、天使長が人間始祖を落させ、また、カインがアベルを殺すことによって、サタンが長子の立場で人類史をつくってきたため、天の側から長子の立場にいるサタンの側を打って、蕩減復する件を立てなければ、カナン復路程を出することができなかったからであった。そしてつぎには、モセがパロの宮中にする未練をち、再びそこにることができない立場に立たせるためであり、また、一方においては、これをもってイスラエル民族に彼の愛心を見せ、彼を信ずるようにするためでもあったのである。第二次民族的カナン復路程において、神がエジプトの長子と、その家畜の初子を全部打たれた理由も、正にここにあったのである。
セの、このような行動を目していたイスラエル民族が、神と同じ心情をもって、モセの愛心に感動し、彼を心から尊敬し、心から信じたならば、彼らはモセを中心として、神の導きにより、紅海を渡ったりシナイの荒野を巡るようなことをせずに、すぐペリシテの方へ行く近道を通ってカナンの土地に入り、「体基台」をつくるはずであった。そして、この路程は、ヤコブのハラン二十一年路程を蕩減する二十一日路程となるはずであったのである。出エジプト記一三章17節には、「パロが民を去らせた時、ペリシテびとのの道は近かったが、神は彼らをそれに導かれなかった。民がいを見れば悔いてエジプトにるであろうと、神は思われたからである」と記されている。このみ言によって、神は、第一次民族的カナン復路程においては、ペリシテ地方の近道を通らせるつもりであったが、イスラエル民族がモセを信じなかったために、この路程は出することもできなかったのであり、第二次民族的カナン復路程のときには、第一次のときと同じく、彼らが再び不信にりカナン復の途中でエジプトにることを憂慮されて、紅海を渡り、荒野を迂回していくように導かれたということを、我は知ることができるのである。

③第一次民族的カナン復路程の失敗
もしカインの立場にいたイスラエル民族が、アベルの立場にいたモセに順に屈伏し、カナンの土地に入ることができたならば、彼らは「落性をぐための民族的な蕩減件」を立てて「体基台」をつくり得たはずであった。
ところが彼らは、モセがエジプト人を打ち殺すのを見て、むしろ、彼を誤解し、そのことを口に出して非難したため、パロはこのことを聞いてモセを亡き者にしようとしたのである(出エ二15)。そこでモセは、やむなくパロの目を避けて、イスラエル民族を離れ、ミデヤンの荒野に逃げるようになったので、その「体基台」をつくることができず、したがって、モセを中心とするイスラエル民族のカナン復路程は、二次から三次まで延長されるようになったのである。

(2)第二次民族的カナン復路程
①信仰基台
イスラエル民族の不信により、第一次民族的カナン復路程は失敗に終わり、モセが彼の「信仰基台」のために立てたパロ宮中の四十年期間は、サタンの侵入を受ける結果となってしまった。それゆえに、モセが第二次民族的カナン復路程を出するためには、サタンの侵入によって失った、パロ宮中の四十年期間を蕩減復する期間を再び立て、「信仰基台」を復しなければならなかったのである。モセがパロを避けてミデヤンの荒野に入り、再び、四十年期間を送るようになった目的は、とりもなおさず、ここにあったのである。この四十年期間には、イスラエル民族も、モセを信じなかった罪によって、一層悲な生活をしたのであった。
セは、ミデヤン荒野における四十年をもって「四十日サタン分立基台」を新たに立てたため、第二次の民族的カナン復のための「信仰基台」を復することができたのである。それゆえに、神はモセの前に現れて「エジプトにいるわたしの民のみを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良いい地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと……のおる所に至らせようとしている。いまイスラエルの人の叫びがわたしにいた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人をエジプトから導き出させよう」(出エ三7~10)と言われたのであった。

体基台
セは、ミデヤン荒野の四十年をもって、「四十日サタン分立基台」を再び造成し、「信仰基台」を復すると同時に、再び「落性をぐための民族的な蕩減件」を立てるにたってのアベルの位置をも確立したのである。したがって、第一次民族的カナン復路程の場合と同じく、カインの立場にいたイスラエル民族が、アベルの立場にいたモセを絶的に信じ、かつ、彼にったならば、神のみ言のとおりに、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に入ることができたわけであるから、ここで、「落性をぐための民族的な蕩減件」を立て、「体基台」を造成できるようになっていたのであった。
第一次民族的カナン復路程を出しようとしたとき、モセがエジプト人を打ち殺したのと同じ目的でもって、第二次民族的カナン復路程を出するにたって、神はモセに、三大奇跡と十災禍を起こす能をえられ、エジプト人を打つことによって「出のための理」をされたのである。セがサタンの側を打たなければならない理由は、に明らかにしたように、第一に、サタンが侵入した長子の立場を蕩減復し、第二に、イスラエル民族をしてエジプトにする未練をつようにさせ、第三に、モセがどこまでも、神が送られた人であるということをイスラエル民族に知らしめるためであった(出エ四1~9)。さらに、モセがエジプト人を打つことができたもう一つの理由があったのであるが、それはイスラエル民族が、神が言われたように、アブラハムの象徴献祭の失敗によるエジプト苦役四〇〇年の蕩減期間を全部たしたにもかかわらず、その上になお、三十年間を苦役されることにより(出エ一二41)、彼らの嘆きが神にまで達し、神の哀れみを呼び起こし得たという事である(出エ二2425)。
それでは、三大奇跡は、復帰摂理路程において、何を予示したのであろうか。第一の奇跡は、神が命令して見せてくださったとおり(出エ四3~5)、モセの命令によって、アロンがその手に持っていた杖をパロの前に投げつけたとき、それが蛇となったというものである。これを見たパロは、自分の魔術師を召し寄せてその杖を投げさせたところ、これもまた、蛇となったのである。ところが、アロンの杖の蛇は彼らの杖の蛇をのみくしてしまった(出エ七1012)。それでは、この奇跡は、いったい何を予示したのであろうか。これは、とりもなおさず、イエスが救い主としてられ、サタンの世界を滅ぼすということを、象的に見せてくださったのである。神の代わりに、神として立てられたモセ(出エ七1)の前で、奇跡を起こしたその杖は、将来、神の前でこのような奇跡を起こすであろう、能的な面から見た、イエスを象したのであった。それと同時にまた、杖は身代わりの支え人、身代わりの保護者として、不義を打ち、真実なる道案人の使命をするものであるがゆえに、これは将来、イエスが全人類の前で、このような使命を担ってられるということを見せてくださったものであり、その使命の面からイエスを象したものであったのである。
そして、イエスを象する杖が蛇になったということは、イエスもまた、蛇の役割をしなければならないということを、見せてくださったのである。イエスが「モセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(ヨハネ三14)と、御自分を蛇に例えられた理由は、にここにあった。またイエスは、その弟子たちに、蛇のように賢くあれ(マタイ一〇・16)と言われた。これは元、人間始祖がい蛇に誘惑されて落したのであるから、これを蕩減復するために、イエスは善なる知の蛇としてられ、なる人間たちを誘って善に導かなければならないし、弟子たちも善なる蛇としてられたイエスの知を習い、人たちを善導しなければならないという意味で、そのように言われたのである。また、モセの蛇が魔術師の蛇をのみくしたということは、イエスが天の蛇としてられ、サタンの蛇をのみ滅ぼしてしまわれるということを象的に見せてくださったのであった。
第二の奇跡は、神の命令によって、モセが最初に手をに入れたときには、その手がらい病にかかっていた。しかし、神の命令によって、再びその手をに入れたときには、らい病にかかっていたその手が完全に快復して元の肉のようになっていたのである(出エ四6、7)。この奇跡は、将来イエスが後のアダムとしてられ、後のエバの神性である聖(前編第七章第四節(一))を送られることによって、贖罪の理をされるということを、象的に見せてくださったのであった。最初に手をに入れて、不治のらい病にかかったということは、最初に天使長がエバをに抱くことによって、人間が救われ難い立場に落してしまったということを意味したのである。そして、その手を再びに入れたとき、病が完全に治ってしまったということは、人類の父性の神であられるイエスがられて、人類の母性の神であられる聖(前編第七章第四節(一))を復し、めんどりがそのひなを翼の下に集めるように(マタイ二三37)、全人類を、再びそのに抱くことによって重生せしめ、完全復するということを表示されたのであった。
第三の奇跡は、川の水を陸地に注いで血となるようにしたことである(出エ四9)。これは、無機物(水)に等しい命のない存在が、有機物(血)に等しい命のある存在として復されるということを、象的に見せてくださったのであった。水は落して命を失った世間一般の人間を意味するのであるから(一七15)、この奇跡は将来イエスと聖とがられて、命を失った落人間を、命のある子女として復されるということを、見せてくださったのである。以上のような三つの能を行われたのは、イスラエル民族の前に、将来イエスと聖とが、人類のの父母としてられ、全人類を子女として復し、サタンに奪われた創造本然の四位基台を復することができる、象的な蕩減件を立て得るようにされるためであった。
つぎにセが、神に自分の言葉を代理に語れる人を要求したとき、神はその兄アロン(出エ四14)と、アロンの姉である女預言者ミリアム(出エ一五20)とを彼にえられた。これは、将来み言の体となられるイエス(ヨハネ一14)と聖とがられて、落によってみ言を失った人間を、み言の体として復されるということを、形象的に見せてくださったのであった。それゆえに、アロンとミリアムとがカナンの復路程を通じて、神の立場にあったモセに仕え、彼の身代わりとなって指導の使命を担ったということは、将来イエスと聖とが、世界的カナン復路程を通して、神のみ旨にい、身代わりの贖罪使命をされるということを、形象的に見せてくださったのである。
セが神の命令を受けパロの前に行く途中で、主が現れてモセを殺そうとされた。そのときモセは、彼の妻チッポラがその男の子に割を施して許しを請うたおかげで、死を免れることができたのである(出エ四2426)。このように、セは割をもってその試練に勝利したため、彼の家族が生き得たのであり、したがって、イスラエル民族がエジプトから出られるようになったのであるが、これもまた、将来イエスがられたときに、イスラエルの民族が割の過程をなくては、神の救いの理が成就されないということを、前もって見せてくださったのである。
それでは、がいかなる意味をもっているかということについて、調べてみることにしよう。人間始祖は、サタンと血縁関係を結ぶことによって、いわば、陽部を通じて死亡の血を受けたのであった。ゆえに、落した人間が、神の子女として復されるためには、その蕩減件として、陽部の皮を切って血を流すことにより、その死亡の血を流してしまったということを示す表示的件として、割を行うようになったのである。それゆえに、この割の根本意義は、第一には、死亡の血を流してしまうという表示であり、第二には、男子の主管性を復するという表示であり、また第三には、本然の子女の立場を復するという約束の表示でもあるのである。ところで、割の種類としては、心の割(申命一〇・16)と、肉身割(創一七10)、万物割(レビ一九23)などの三種類がある。
つぎに神は、モセを通じて十災禍の奇跡を行われることにより、イスラエル民族をエジプトから救いだされたのであるが(出エ七10~一二36)、これも将来イエスがられて、奇跡をもって神の選民を救われるということを、見せてくださったのであった。ヤコブがハランにおいて、二十一年間の苦役をするとき、ラバンは然ヤコブにえなければならない報酬をえないで、十回も彼を欺いた(創三一7)。それゆえに、ヤコブの路程をむモセの路程においても、パロがイスラエル民族を、限度を越えて苦役させたばかりでなく、十回も彼らを解放すると言いながら、そのつど彼らを欺いたので、その蕩減として十回の災禍を下し、パロを打つことができたのである。それでは、これらの災禍はいったい、何を予示しようとされたものであるかということについて、調べてみることにしよう。
エジプトの側には三日間の暗があり、イスラエルの側には三日間の光明があったというのは、これは将来イエスがられたら、サタンの側は暗闇となり、神の側は光明となって、サタンの側と神の側とが分岐されるということを、表示してくださったのである。つぎに神は、エジプトの長子と家畜の初子をことごとくってしまわれたのであるが、イスラエルの民族は、羊の血をもってこれを免れることができた。これは、サタン側の長子はカインの立場であるためにこれを打ち、アベルの立場である次子をして、長子の立場を復するようにさせるためであった。この災禍もまた、将来イエスがられたならば、最初に長子の立場を復することにより、理路程を先に出したサタンの側は滅び、次子の立場である神の側はイエスの血の代贖によって救われるということを、前もって見せてくださったのである。モセはまた、エジプトから多くの財物を取って出したのであるが(出エ一二3536)、これも、将来にあるはずのイエスの万物復を、前もって表示されたのであった。神は災禍の奇跡を行われるごとに、パロの心をかたくなにされたが(出エ一〇・27)、その理由は、第一に、パロとイスラエル民族に神の能力をはっきりと見せ、神はまさしく、イスラエルの神であられるということを悟らしめるためであった(出エ一〇・1、2)。そして第二には、パロをして、あらん限りの力をくして、イスラエル民族を捕らえようと努めさせ、しかも結局は、やむなくそれを念せざるを得ないことを体させ、自己の無力を悟らしめ、また、イスラエル民族がエジプトを離れたのちにも、彼らにする未練をもたしめないようにされるためであった。そして、第三には、イスラエル民族をして、パロにする敵愾心を抱くようにさせ、エジプトにする未練をつようにさせるためであった。
第一次の民族的カナン復路程においては、モセがエジプト人を打ち殺すことをもってその出のための理をされたのであった。しかし、彼らがかえってモセを信じなかったために、この路程は出することさえもできず、失敗に終わってしまったのである。ところが、第二次路程におけるイスラエル民族は、その「出のための理」として見せてくださった三大奇跡と十災禍に接し、モセはまさしく、神が遣わされた真実なるイスラエルの指導者である、ということを信ずるようになったのであった。そして、イスラエル民族は、「民族的な信仰基台」の上でアベルの立場を確立したモセを信じ、彼にう立場に立つようになったので、彼らはついに、第二次民族的カナン復路程を出することができたのである。
ところが、イスラエル民族がこのように一時的にモセにい、順に屈伏したとしても、それだけで直ちに「落性をぐための蕩減件」が立てられたということにはならない。なぜかといえば、落性をぐための蕩減件」を立てる理路程にはサタンが侵入し、長い理の期間をサタンに奪われていたために、モセにしてカインの立場に立っていたイスラエル民族は、このような期間を民族的に蕩減復するため、この荒野路程の全期間を通じ、順と屈伏をもってモセを信じ、彼にわなければ、「落性をぐための民族的な蕩減件」を立てることができなかったからである。したがって、イスラエル民族がモセにい、荒野路程をてカナンに入ってしまうまでは、「民族的な体基台」を立てることができなかったのであった。
このように神は、第二次のカナン復路程においては、その第一次のときよりももっと大きな恩賜をもって「出のための理」をされたのである。しかし、これはあくまでも彼らの不信のためであったから、第二次路程においてイスラエル民族が立てるべき蕩減件は、更に一層加重されたのであった。すなわち、第一次路程においては、彼らがモセを信じ、彼にったならば、ペリシテの近道に導かれ、ヤコブのハラン路程期間である二十一日間をもって、カナンの福地に入り得たはずであったのである。ところが、第二次路程においては、出エジプト記一三章17節に明示されているように、もし、彼らがペリシテ地方の近道に導かれたならば、戦争を見て恐れを抱き、第一次路程のときと同じく、再び不信にってエジプトにるかもしれない、と心配されたので、神は彼らをこの近道に導かれないで、紅海を渡り、荒野を迂回し、二十一カ月かかってカナンに入る路程を選ばれたのであった。
このようにして、セを中心とするイスラエル民族は、二十一カ月の荒野路程を出するようになったのである。それでは、に前もって述べたとおり、この路程がいかにして、将来来られるイエスを中心とする、世界的カナン復路程の表示路程になったか、ということについて調べてみることにしよう。
セに屈伏したパロがイスラエル民族に、自分のでなら牲をささげてもよいと承諾したとき、モセは、「そうすることはできません。わたしたちはエジプトびとの忌むものを牲として、わたしたちの神、主にささげるからです。もし、エジプトびとの目の前で、彼らの忌むものを牲にささげるならば、彼らはわたしたちを石で打たないでしょうか。わたしたちは三日の道のりほど、荒野にはいって、わたしたちの神、主に牲をささげ、主がわたしたちに命じられるようにしなければなりません」(出エ八26、27)という言葉をもってパロを欺き、自由許諾の三日間を得て、イスラエル民族を導きだしてきたのであった。この三日間は、すなわち、アブラハムがイサク祭にたってサタン分立のために要した期間であったから、そののちこれは、理路程を出するたびごとに、サタン分立のために必要な蕩減期間となったのである。したがって、ヤコブがカナン復路程を出しようとしたときにも、ラバンを欺いてハランを離れ、サタンを分立した三日期間があった(創三一19~22)。これと同じく、セにも、彼がカナン復路程を出するためには、パロを欺いて自由行動をとり、サタンを分立せしめる三日期間がなければならなかったのである。そして、これは後日、イエスの場合にも、サタン分立のための復活三日期間があったのち、初めて、的復路程の出をされるようになるということを、表示してくださってもいるのである。このようにして、イスラエルの丁(成年に達した男子)六十万人が、ラメセスを出したのは、正月十五日であった(出エ一二6~37、民三三3)。
イスラエル民族が、三日期間を神のみ意にかなうように立て、スコテに到達したのちにおいても、神はきない恩賜をもって、は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを導かれたのである(出エ一三21)。セの路程で、イスラエル民族を導いた(陽)の雲の柱は、将来イスラエル民族を、世界的カナン復路程に導かれるイエスを表示したのであり、夜(陰)の火の柱は、女性神として彼らを導くはずである聖を象したのであった。
セは神の命令により、杖をもって紅海の波を分け、それを陸地のようになさしめて渡ったのであるが、彼らのあとを追してきたエジプトの馬と車と騎兵とは、みな水葬に付されてしまったのである(出エ一四2128)。明したように、パロの前に立っていたモセは、神を象したのであり(出エ七1)、モセが手に持っていた杖は、神の能を現すイエスを象したのであった。それゆえに、この奇跡は将来イエスがられるとき、サタンはイエスにって、世界的カナン復路程をむ信仰者たちのあとを追することになるが、杖の使命者としてられるイエスが、の杖をもって(27、詩二9)、彼らの前にたわるこの荒海の俗世界を打つとき、この苦海も平坦な道に分けられるはずであるから、聖徒たちの道は開かれ、追するサタンは滅ぼされてしまうということを見せてくださったのである。前編の終末論においてに述べたように、の杖は神のみ言を意味する。そして、一七章15節には、この罪世界を水に例えているのである。我がこの俗世界を苦海と呼ぶのも、このような通念から生じてきたものと見ることができる。
イスラエルの民族は、紅海を渡り、エジプトを出してから二カ月目の十五日に、シンの荒野に到着した(出エ一六1)。このときから神は、彼らが人の住む土地にやってるまでマナとうずらとをえられたのであるが(出エ一六35)、これは将来、イエスが世界的カナン復路程において、人間の命の要素であるイエスの肉(マナ)と血(うずら)とが、すべての人間にえられるということを見せてくださったのである。それゆえに、ヨハネ福音書六章48節以下を見ると、イエスは、「……あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった……人の子の肉を食べず、また、その血をまなければ、あなたがたのに命はない」と言われたのであった。
イスラエル民族がシンの荒野を出して、レピデムに宿したとき、神はモセに命ぜられて、ホレブ山の磐石(岩)を打たせ、水を出して彼らにませられた(出エ一七6)。ところで、コリント章4節に「岩はキリストにほかならない」と言われているのであるから、この行事は将来メシヤがられ、「永遠の命に至る水」(ヨハネ四14)によって、すべての人を生かすということを見せてくださったのである。つぎに、モセがシナイ山で受けた二つの石板も、イエスと聖とを象するのであるが、磐石は石板の根であるから、これはまた神をも象しているのである。モセが磐石を打って水を出し、イスラエル民族にませて彼らを生かした基台があるので、この基台の上でモセが石板を受けるようになったのであり、したがって契約の箱と幕屋をつくることができたのであった。
ヨシュアがレピデムでアマレクとったとき、モセが手をげているとイスラエルが勝ち、手を下げると敗れた。それゆえに、アロンとホルは、石を取ってモセの足もとに置き、彼をその上に座らせて、彼の手が下がらないように左右から支えることにしたので、その前でっていたヨシュアは、アマレク王とその民を打って勝利したのであった(出エ一七1013)。これも将来、イエスがられるときに起こることを、前もって見せてくださったのであり、ヨシュアはイエスを信ずる信仰者を、アマレクはサタンの世界を、そしてアロンとホルはイエスと聖を、各したものである。そして、アロンとホルがモセの手を支えて立っていたその前で、ヨシュアがアマレクを打って滅ぼしたということは、神を中心とするイエスと聖の三位神を信ずる信仰者たちは、その前に現れるあらゆるサタンを滅ぼすことができるということを予示してくださったのであった。

③幕屋を中心とする復帰摂
は先に、石板と幕屋と契約の箱とを受けるようになったそのいきさつを、知らなければならない。イスラエル民族は、アマレクとって勝利したのち、三カ月目の初めに、シナイの荒野に到着した(出エ一九1)。ここでモセは、長老七十人を率いて、シナイ山に登って神を見た(出エ二四9、10)。神は特別に、モセをシナイ山の頂に呼ばれ、石の板に記した十戒を受けるために、四十日四十夜を食せよと命じられた(出エ二四18)。セは、シナイ山で食する間に、神から契約の箱と幕屋についての指示を受けた(出エ二五~三一)。そして四十日間の食が終わったとき、モセは十戒を記した二つの石板を神から受けたのである(出エ三一18)。
セが石板を持ってシナイ山から下り、イスラエルの民の前に出てきたとき、彼らはアロンをして金の子牛をつくらせ、それが、イスラエル民族をエジプトから導きだした神であると言ってんでいたのであった(出エ三二4)。これを見たモセは大いに怒って、手に持っていた二つの石板を山の下に投げつけ、してしまったのである(出エ三二19)。しかし、神は再びモセに現れて、先のものと同じ石の板をつくってきたなら、そこにまた十戒のみ言を刻んでくださることを約束されたのであった(出エ三四1)。このみ言を聞いたモセが、再び四十日四十夜を食したとき、神は彼の石板に再び十戒を記してくださった(出エ三四28)。モセがこの石板をもって、再びイスラエル民族の前に現れたとき、初めて彼らはモセを信じ、彼に仕えるようになって、契約の箱をつくり、幕屋を建設したのである(出エ三五~四)。

()石板、幕屋、契約の箱などの意義とその目的
石板は何を意味するものであろうか。セがみ言を記した二つの石板を受けたということは、落によって、供え物を通してのみ神と対応できた復基台理時代がに過ぎさり、落人間がみ言を復して、それをもって神と対応することができる復帰摂理時代に入ったということを、意味するのである。そして、に後編の論において明らかにしたように、み言によって創造されたアダムとエバは、完成したならば、み言の「完成体」となるはずであった。しかし、彼らは落することによって、み言を失った存在となってしまったのである。ここにおいて、モセが「四十日サタン分立期間」をもって、み言を記した二つの石板を手にしたということは、サタンの世界から、失ったアダムとエバとを、象的なみ言の体として復したということを意味するのである。したがって、み言を記した二つの石板は、復したアダムとエバとの象体であって、将来、み言の体としてられるイエスと聖とを象したのであった。聖書にイエスを白い石で象し(17)、また、岩はすなわちキリストである(コリント〇・4)と言われた理由はここにあるのである。このように、二つの石板はイエスと聖とを象するために、結局これらはまた、天と地とを象することにもなるのである。
つぎに、幕屋にはどういう意義があるのであろうか。イエスはエルサレムの神殿を自分の体に例えられた(ヨハネ二21)。そしてまた、イエスを信じる信徒たちのことをも、神の宮であると言われたのである(コリント16)。それゆえに、神殿はイエスの形象的な表示体であるといわなければならない。セを中心とするイスラエル民族が、第一次カナン復に成功したならば、彼らはカナンの地に入ってすぐ神殿を建設し、メシヤを迎えることができる準備をするはずであった。ところが、彼らの不信により、第一次路程は出することもできなかったのであり、第二次路程では、紅海を渡り荒野において流浪するようになったため、神殿を建設することができず、その代わりに、幕屋を建てたのである。それゆえに、幕屋はイエスの象的な表示体なのである。それゆえ、神がモセに幕屋を建てるように命ずるとき、「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出エ二五8)と言われたのである。
幕屋は至聖所と聖所との二つの部分からなっているのであるが、至聖所は、大祭司だけが年に一度入って祭をする所である。そして、そこには契約の箱が安置されていて、神が親しく臨在される所であるために、これはイエスの人体を象したのであり、聖所は普通の祭のときに入る所であって、これはイエスの肉身を象したのであった。したがって、至聖所は無形体世界を、聖所は有形体世界を象することになるのである。イエスが十字架につけられたとき、聖所と至聖所との間に掛けられていた幕が、上から下までっ二つに裂かれたということは(マタイ二七51)、イエスの十字架による的救いの理の完成によって、人体と肉身とが、そして、天と地とが、互いに交通し得る道が開かれたということを意味するのであった。
それでは契約の箱とはいったい何であろうか。契約の箱とは、至聖所に安置する律法の櫃であって、その中にはイエスと聖、すなわち天と地とを象する二つの石板が入っていた。そしてまた、そこには荒野路程におけるイスラエル民族の命の糧であり、また、イエスの体を象するマナが、神の光を表象する金の壺に入れられて安置されていたのであり、また、イスラエルに神の能力を見せてくださった、芽を出したアロンの杖が入っていたのである(ヘブル九4)。このような点から見るとき、契約の箱は、大きくは天宙の、そして、小さくは幕屋の縮小体であると見なすことができる。
そして、契約の箱の上には贖罪所がつくられていたのであるが、神が言われるには、金をもって二つのケルビムをこしらえ、贖罪所の左右に向かいあわせに置けば、二つのケルビムの間から主なる神が親しく現れて、イスラエルの人に、命じようとするもろもろのみ言を語るであろうと言われたのである(出エ二五1622)。これは将来、二つの石板に表示されているイエスと聖とがられて理されることにより、贖罪が成立すれば、その贖罪所に神が現れると同時に、エデンの園において、アダムが生命の木の前に出ていく道をふさいでしまったケルビム(創三24)が左右に分かれて、だれでも生命の木であられるイエスの前に行って、神のみ言を受けることができるようになるということを表示してくださったのであった。
それでは、神が石板と幕屋と契約の箱とを下し給うた目的は、いったいどこにあるのだろうか。イスラエル民族は、アブラハムの「象徴献祭」の失敗によって招した四〇〇年蕩減期間を終えてのち、三大奇跡と十災禍をもってエジプトの民を打ち、追してくるエジプトの多くの兵士と車とを水葬に付して紅海を渡り、荒野への道を踏みだしたのであった。神のみ旨を中心として見てもそのとおりであるが、このように仇をつくって離れたエジプトであったために、再びそこにることができない立場にいたイスラエル民族にとって、カナン復は必然的に成就しなければならない路程であったのである。それゆえに、神は「出のための理」を、そのような奇跡と災禍をもって行われたのであり、また、イスラエル民族をして紅海を渡らせ、再び、ることができないような環境へと追いつめられたのであった。
しかし、イスラエル民族はみな不信に流れてしまった。そしてついには、モセまでが不信の行動をとるかもしれないという立場にってしまったのである。ここにおいて神は、たとえ人間はわってもわることのできないある信仰の象を立てなければならなかったのである。すなわち、いかなるときにおいても、たった一人でもこれを絶に信奉する人がいるならば、そのような人たちによって、その信仰の象を、あたかもバトンのように承しながら、理の目的をあくまでも成就していこうとされたのである。
それでは、このような信仰の象は何をもって立てなければならなかったのであろうか。石板が入っている契約の箱を安置することによって、メシヤを象した幕屋が、すなわち、これであったのである。それゆえに、イスラエル民族が幕屋をつくったということは、にメシヤが象的に降臨されたということを意味するのであった。
したがって、モセを中心とするイスラエル民族が、この幕屋をメシヤのようにし忠誠をもって信奉し、カナンの福地に復するならば、「民族的な体基台」は、そのときに立てられるのであった。そして、もしイスラエルがみな不信にるとしても、モセ一人だけでもってその幕屋を守るならば、その民族は再び蕩減件を立てて、幕屋を信奉するモセを中心として、その基台の上に復することができるのである。その上、もし更にモセまでが不信にったとしても、その民族の中のある一人がモセを代理して最後まで幕屋を守るならば、また、彼を中心として、不信にったりの全民族を復する理を再びなさることができたのであった。
第一次民族的カナン復路程において、もしイスラエル民族が不信にらなかったならば、モセの家庭は幕屋の代理であり、モセは石板と契約の箱の代理であり、また、モセの家法は、天法を代理するはずであったから、彼らには、石板とか契約の箱とか幕屋とかが必要ではなく、そのままカナンに入って、神殿を建てるはずであったのである。ゆえに、石板と幕屋と契約の箱は、イスラエル民族が不信にったので、彼らを救うための一つの方便として下さったものなのであった。幕屋はイエスと聖の象的な表示体であるから、神殿を建てるときまで必要だったのであり、神殿はイエスと聖の形象的な表示体であるから、体の神殿であられるメシヤが降臨されるときまで必要だったのである。

()幕屋のための基台
メシヤを迎えるためには「メシヤのための基台」がつくられなければならないのと同に、象的なメシヤである幕屋を迎えるためにも、「幕屋のための基台」がつくられなければならない。したがって、この基台を立てるためには、幕屋のための「信仰基台」と、幕屋のための「体基台」とを立てなければならない、ということはいうまでもない。それでは、モセを中心とするイスラエル民族は、いかにしてこの二つの基台を立てることができたであろうか。
セが、幕屋のための神のみ言を信奉し、食の祈りをもって「四十日サタン分立期間」をみ意にかなうように立てれば、幕屋のための「信仰基台」がつくられるようになっていたのである。また、イスラエル民族が、幕屋のための「信仰基台」の上で、幕屋理想を立てていくモセに、信仰をもって順に屈伏すれば、幕屋のための「落性をぐための蕩減件」が立てられ、したがって、幕屋のための「体基台」もつくられるようになっていたのであった。ここにおいて、幕屋というのは、その中に入っている石板と契約の箱とを含めていうのである。

(a)第一次幕屋のための基台
人間は、六日目に創造されたみ言の体である(ヨハネ一3)。したがって、このように創造されたあとで落した人間を復するために、再創造のみ言を下さる理をされるためには、サタンの侵入を受けた創造期間の六を聖別しなければならないのである。そこで、神は六日間、主の光の雲をもってシナイ山を覆い聖別されたのち、七日目に、その雲の中に現れてモセを呼ばれたのであった(出エ二四16)。セは、このときから四十日四十夜の間食したのである(出エ二四18)。それは、に前のところで詳しく論じたように、イスラエル民族が紅海を渡ったのち、再び不信にるのを見られた神が、モセをして「四十日サタン分立期間」を立てるようにせられ、それによって、象的なメシヤである幕屋のための「信仰基台」を立たしめるためであった。
イスラエル民族のカナン復路程における「落性をぐための蕩減件」は、彼らが一時的にモセを信じ、彼にうことによってつくられるのではなく、彼らがカナンに入り神殿を建ててメシヤを迎えるときまで、継続してそのような立場に立ちつづけることによってのみ、それが成立するということは、に論じたとおりである。これと同じく、幕屋を建てるために、「落性をぐための蕩減件」を立てて、幕屋のための「体基台」をつくるときにおいても、イスラエル民族は、モセが「四十日サタン分立期間」をて幕屋を建てるときまで、彼を信じ、彼に仕え、彼にわなければならなかったのであった。ところが彼らは、モセが食の祈りをあげていた期間に、みな不信にってしまい、アロンに金の子牛をつくらせ、それがイスラエルの民をエジプトから導きだした神であると言ってんでいたのである(出エ三二4)。その結果、イスラエル民族は、幕屋のために立てなければならなかった「落性をぐための蕩減件」を立てられず、したがって幕屋のための「体基台」もつくることができなかったのである。
神は、奇跡をもってイスラエル民族を導いてくださった。しかし、人間自身がみ言の基台を失ってしまったのであるから、人間自身の責任分担において、それを立てなければならないこの期間に限っては、神も彼らの行動を干し給うことができなかったのである。ところで、偶像をつくって踊り狂っているイスラエルの民を見るや否や、烈火のごとく憤ったモセは、手に持っていた石板を山の下に投げつけて、してしまった(出エ三二19)。そのためこれは、モセが「四十日サタン分立期間」をもって立てたところの幕屋のための「信仰基台」に、サタンが侵入するという結果をもたらしてしまったのである。二つの石板は、に前のところで明らかにしたように、後のアダムと後のエバとして復されるイエスと聖とを象している。モセが、イエスと聖とを象する二つの石板を、イスラエルの不信仰によってしてしまったということは、次にイエスがられるときにも、もしユダヤ民族が不信仰にれば、イエスが十字架で亡くなられ、イエスと聖が神から受けた本の使命を完遂することができないということを象的に見せてくださったのであった。
セを中心として行われたイスラエル民族のこのような不信仰は、モセが「四十日サタン分立期間」を立てたのち、その民をしてモセにわせ、「幕屋のための基台」をつくろうとされた神の理を挫折させてしまったのである。したがって、「幕屋のための基台」をつくろうとされた理は、打ちくイスラエルの不信仰により、二次から更に三次にまで延長されてきたのであった。

(b)第二次幕屋のための基台
セを中心とするイスラエル民族は、二つの石板を中心とする神の理にして不信にってしまった。しかし彼らは、にレピデムにおいて石板の根である磐石の水をんだ基台の上に立っていたために(出エ一七6)、セが石板をしてしまったあとでも、神は再びモセの前に現れ、石板二つを以前のものと同じようにつくってくるならば、最初の石板に刻んで下し給うたのと同じみ言を、再び書いてくださるということを約束されたのである(出エ三四1)。しかし、ここで「四十日サタン分立基台」を再び立てて、幕屋のための「信仰基台」を復しなければ、石板を中心とする幕屋を復することは不可能であるため、モセは、再び、四十日四十夜の間食したのちに、十戒のみ言を記した第二次の石板と幕屋理想を復するようになったのであった(出エ三四28)。
一度してしまった石板を、四十日四十夜の食の祈りをもって復したということは、十字架で亡くなられたイエスも、彼を信ずる信徒たちが「四十日サタン分立基台」をもって、彼を迎えることができる蕩減件を立て得るならば、その基台の上に再臨なさり、救いの理を再び行うことができるということを見せてくださったのである。
セが、第二次として石板を中心とする幕屋理想を復していた「四十日サタン分立基台」においては、イスラエル民族は、モセに順に屈伏しただけでなく、モセの指示によって、神のみ言のとおりに幕屋を建てたのであるが、そのときは、第二年の正月一日であった(出エ四〇・17)。このようにして、イスラエルの選民たちは「落性をぐための蕩減件」を立て、幕屋のための「体基台」をつくることによって、「幕屋のための基台」を造成した基台の上に、幕屋を建設するようになったのである。しかし、に述べたように、彼らが幕屋を建設することだけでは、第二次民族的カナン復路程における「体基台」はつくり得ないのである。彼らはカナンに入って神殿を建て、メシヤを迎えるときまで忠節をえることなく、この幕屋を自分たちの命よりもなお貴重に思い、それを信奉しなければならなかったのである。
第二年の二月二十日に、イスラエル民族は雲の柱の導きによって、幕屋を中心として、シナイの荒野を出した(民〇・1112)。ところが、彼らは再び不信仰にり、モセを恨んだので、エホバは怒りをせられ、火をもって彼らの宿の端をかれたのである(民一一1)。イスラエルの民はそれでもなお悔い改めず、泣き叫びながら、マナのほかには、きゅうりもすいかもないとモセに恨み言を言いつつ、エジプトの地を慕ったのであった(民一一4~6)。したがって、イスラエル民族が立てていかなければならなかった「幕屋のための基台」は、再びサタンの侵入を受ける結果となってしまったので、この基台を復しようとした理は、またも、第三次の延長を余儀なくされたのであった。

(c)第三次幕屋のための基台
イスラエル民族が、再び不信にったので、彼らを中心とする第二次の「幕屋のための基台」は、また、サタンの侵入を受けるようになってしまったのである。しかし、セのわらない信仰と忠誠とによって、その幕屋は、依然としてモセを中心とする幕屋のための「信仰基台」の上に立っていたのであり、また、イスラエル民族は、にレピデムで幕屋の中心である石板の根、すなわち、磐石の水をんだ(出エ一七6)基台の上に立っていたのであった。それゆえに、このような基台の上でイスラエル民族が再び、「四十日サタン分立基台」を立てて、幕屋を中心とするモセに順に屈伏したならば、彼らはいま一度、第三次の「幕屋のための基台」を蕩減復できるようになっていたのである。このための件として下さったのが、四十日の偵察期間であった。
神はイスラエル民族の各部族から族長一人ずつを集めて、十二名をカナンの地に送り(民一三2)、四十日間にわたって偵察をさせられた(民一三25)。しかし、偵察からってきた十二名のうち、ヨシュアとカレブとを除いては全部が不信仰な報告をしたのである。すなわち、その地に住む民はく、その町は堅固であるばかりでなく(民一三28)、その地はそこに住む者を滅ぼす地であり、またその所で見た民はみな背が高い人であり、わたしたちには自分がいなごのように思われた(民一三32、33)と言いふらし、イスラエルはその城とその民とを攻することができないと報告したのである。この報告を聞いたイスラエル民族は、モセに向かってつぶやき、泣き叫びながら、新たに一人のかしらを立てて、エジプトにろうとぎだした。
しかし、ヨシュアとカレブとは、カナンの地の民たちは、彼らを守る者がに取り除かれているので、イスラエルの食いものにすぎない。その反面、我には、エホバが保護者としてついておられるのだから、恐れることなく彼らを攻することによって、神に背かないようにしなければならないと叫んだのである(民一四9)。しかし、イスラエルの民はかえって、石をもってヨシュアとカレブとをち殺そうとしたのであった(民一四10)。このときにエホバが現れて、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか」(民一四11) と言われながら、「あなたがたの子供は、わたしが導いて、はいるであろう。彼らはあなたがたが、いやしめた地を知るようになるであろう。しかしあなたがた は死体となってこの荒野に倒れるであろう。あなたがたの子たちは、あなたがたの死体が荒野に朽ち果てるまで四十年のあいだ、荒野で羊飼となり、あなたがた の不信の罪を負うであろう。あなたがたは、かの地を探った四十日の日にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」(民一四3134)と言われたのである。このように、第三次の「幕屋のための基台」も復することができなくなったので、第二次の二十一カ月の荒野路程は、第三次の四十年荒野路程に延長されてしまった。

④第二次民族的カナン復路程の失敗
イスラエル民族の不信により、「幕屋のための基台」が、三次にわたってサタンの侵入を受けるようになったので、第二次民族的カナン復路程における「落性をぐための民族的な蕩減件」は、立てることができなくなってしまった。したがって、第二次に立てようとした「体基台」を造成することができなくなり、第二次民族的カナン復路程は、再び失敗に終わってしまい、第三次民族的カナン復路程に延長されたのである。

(3)第三次民族的カナン復路程
①信仰基台
イスラエル民族の不信仰により、第二次民族的カナン復路程が失敗に終わったので、モセがこの路程の「信仰基台」を復するために立てたミデヤン荒野の四十年期間は、再び、サタンの侵入を受ける結果となってしまった。それゆえに、イスラエル民族が偵察四十日期間を、信仰と順をもって立てることができなかったので、日を年に換算して、荒野をてカデシバルネアにるまでの四十年期間は、モセにおいては、第二次路程の「信仰基台」に侵入したサタンを分立して、第三次路程の「信仰基台」を蕩減復するための期間となった。したがって、この荒野の四十年間を、ひたすら信仰と忠誠をもって、幕屋を信奉しながら流浪したあと、カデシバルネアに再びってきたモセは、第三次民族的カナン復路程のための「信仰基台」を立てることができたのであり、それによってこの路程の、民族的な「祭」のためのアベルの立場も確立するようになったのである。

体基台
イスラエル民族が、偵察四十日路程を、信仰と順とをもって立てることができず、不信と反逆をもって失敗したために、「幕屋のための基台」は、依然としてサタンの侵入を受けたものとなっていたから、第二次路程のための「体基台」は造成されなかったのである。しかし、幕屋を忠誠をもって信奉した、モセの幕屋のための「信仰基台」は、そのままっていたので、この基台の上でイスラエル民族が、荒野流浪の四十年期間を、わらぬ信仰をもって幕屋を信奉しているモセに、順に屈伏することにより、偵察四十日に侵入したサタンを分立する基台を立てるならば、そのときに、幕屋のための「体基台」が造成されると同時に、「幕屋のための基台」もつくられるようになるのである。そしてこの基台の上にイスラエル民族が、信仰と順とをもって、幕屋を中心としてモセに仕え、カナンに入るならば、そのときに、第三次民族的カナン復路程における「体基台」がつくられるようになっていたのであった。
したがって、荒野の四十年流浪期間は、モセにおいては、第三次路程における「信仰基台」を立てるための期間であったのであり、またイスラエル民族においては、「幕屋のための基台」を立てたのち、第二次路程で彼らがモセに仕えて幕屋を建設した立場にることによって、第三次路程の「出のための理」をつくるための期間であったのである。

()セを中心とする体基台
石板と幕屋と契約の箱は、イスラエル民族が荒野で不信にったために受けるようになったということについては、に論じたはずである。すなわちイスラエル民族が、彼らの第二次民族的カナン復路程において、神がその「出のための理」として行われた三大奇跡を、信じない立場に立っていたので、それを蕩減復なさるために、神は彼らに四十日の試練期間をさせたのち、石板と幕屋と契約の箱という三大恩賜を下し給うたのであった。そしてまた、ヤコブがハランでカナンに復しようとしたとき、ラバンがヤコブを十回も欺いたのを(創三一7)、蕩減復するために、十災禍を下されたのであるが、イスラエルがまたもこれを信じない立場に立ってしまったので、それを再び蕩減復するため、十戒のみ言を下さったのである。ゆえに、イスラエル民族が石板と幕屋と契約の箱とを信奉することにより、三大恩賜と十戒を守るならば、彼らは第二次路程において、三大奇跡と十災禍をもってエジプトを出したときのその立場にるようになるのであった。したがって、イスラエル民族が、信仰と順とをもってモセにい、荒野四十年の蕩減期間を終えてカデシバルネアにったのち、モセと共に「幕屋のための基台」の上で石板と幕屋と契約の箱を信奉したならば、彼らは、第二次路程で三大奇跡と十災禍をもってエジプトを打つことにより、「出のための理」の目的を完遂した立場に、再び立つようになっていたのであった。ところで、石板は契約の箱の縮小体であり、契約の箱は幕屋の縮小体であるので、結局、石板は幕屋の縮小体ともなるのである。それゆえに、契約の箱と幕屋は、石板、あるいは、その根である磐石(岩)をもって表示することができるのである。したがって、第三次民族的カナン復路程は、磐石を中心とした「出のための理」により、カデシバルネアを出することによって始まる。そして、イスラエル民族が、信仰と忠誠をもって幕屋を信奉し、モセにってカナンに入れば、そのとき第三次民族的カナン復路程における「落性をぐための蕩減件」が立てられ、モセを中心とする「体基台」がつくられるようになっていたのであった。
それでは、神は磐石を中心とする「出のための理」をいかに完遂しようとされたのであろうか。荒野の四十年期間をみ意にかなうように立てることができず、再び不信にっていくイスラエルの民族を(民〇・4、5)救うために、神はモセをしてイスラエルの衆の前で、杖をもって岩(磐石)を打ち、水を出させて、それを彼らにませられたのであった(民〇・8)。もしモセが、杖で磐石を一度だけ打ち、水を出してませることにより、イスラエル民族が神の能にして認識を新たにし、彼を中心として一つになったならば、彼らはモセと共に「幕屋のための基台」の上に立ち、磐石を中心とする「出のための理」を成就したはずであったのである。そして、そのときから、モセを信じて彼に仕え、彼にってカナンの地に入ったならば、彼らは「落性をぐための民族的な蕩減件」を立てることになるから、第三次路程のモセを中心とする「体基台」を、そのときつくることができたはずであった。ところがセは、水がないといって不平を言い、つぶやいている民を見たとき、憤激のあまり、燃えあがる血を抑えることができず、杖をもって磐石を二度打ったので、神は「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この衆をわたしが彼らにえた地に導き入れることができないであろう」(民〇・12)と言われたのである。セはこのように一度打つべきであった磐石を二度打ったので、磐石を中心とする「出のための理」は、成就することができなくなり、結局は、約束されたカナンの福地を目の前に眺めながら、そこに入ることができなかったのである(民〇・24、民二七1214)。
はここで、磐石(岩)を一度だけ打たなければならなかった理由と、また、二度打ったのがなぜ罪となったのであるか、ということについて調べてみることにしよう。二章17節では、イエスを白い石で象しており、また、コリント章4節を見れば、岩(磐石)はすなわちキリストであると記してあるのを見できる。ところで、落論で明らかにしたように、キリストは生命の木としてられた方であるから(二二14)、磐石は、すなわち生命の木ともなるのである。また、創世記二章9節の生命の木は、エデンの園において、将来、完成するはずのアダムを象したのであって、この生命の木もまた、磐石を意味するものでなければならないから、磐石は完成したアダムを象することにもなるのである。
ところで、サタンはエデンの園で、将来磐石となるはずであったアダムを打って落させた。そこでアダムは、生命の木となることができなかったので(創三24)、彼はまた、神から流れている命の水を永遠にその子孫たちにませ得る磐石(岩)ともなれなかったのである。それゆえに、セが杖をもって打つ以前の、水を出し得なかった磐石は、落したアダムを象するものであった。サタンは、将来、命の水を出し得る磐石となるべく成長してきたアダムを、一度打って落させることにより、彼を「水を出せない磐石」としてのアダムにえてしまったので、神はこの水を出せないアダムの表示体である磐石を一度打って水を出すようにし、それによって、「水を出し得る磐石」として、このアダムを蕩減復することができる件を立てようとされたのである。ゆえに、セが一度打って命の水を出すようになった磐石は、とりもなおさず生命の木としてられて、落した人間に命の水を下さるはずのイエスを象したのであった。それゆえに、イエスは「わたしがえる水をむ者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしがえる水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ四14)と言われたのである。したがって、モセが磐石を一度打つということは、落した第一アダムを、完成した第二アダム、すなわち、イエスに蕩減復することができる件として許されたのであった。ところが、セが天の側から一度打って水を出すようになっている磐石を、もう一度打ったという行動は、将来した石としてられ、万民に命の水をませてくださるはずのイエスを打つことができるという表示的な行動となったのである。このように、イスラエル民族の不信と、それを目したモセが血をもって石を二度打った行動は、将来イエスがられるときにも、イスラエル民族が不信にるならば、磐石(岩)の体となられるイエスの前に、サタンが直接、出現し得るという件を、成立させたことになるので、それが罪となったのである。
セが、石板を一度したことは復することができた。しかし、磐石を二度打つという失敗は復することができなかった。それではその理由はいったいどこにあったのであろうか。帰摂理から見て、石板と磐石とは、外的なものと的なものとの係をもっている。十戒が記されている石板は、モセの律法の中心であるので、結局、約聖書の中心となるのである。約時代のイスラエル民族は、この石板理想を信ずることによって、その時代の救いの圏内に入ることができた。このような意味から、石板は将来来られるイエスにする、外的な表示体であったということを知ることができるのである。
ところが、コリント章4節に、磐石(岩)はすなわち、キリストであると言われたみ言のとおり、磐石はイエスを象すると同時に、石板の根となるので、それは、石板の体であられるイエスの根、すなわち、神をも象するのである。それゆえに、石板を外的なものであるとすれば、磐石は的なものとなる。また、石板を体に例えるならば、磐石は心に該するのであり、石板を聖所であるとするならば、磐石は至聖所となるのである。そしてまた、石板を地に例えるならば、磐石は天に該する。ゆえに、磐石は石板よりももっと大きな値をもっているイエスにする的な表示体なのである。
このように、石板はイエスにする外的な表示体であったので、それはまた神を象するモセの前で(出エ四16、同七1)、イエスの外的な表示体として立てられていたアロンを象したのであった。ところが、イスラエル民族がアロンに金の子牛をつくらせたので(出エ三二4)、アロンの信仰がれるや、石板もまた、れてしまったのである。ところがアロンがレピデムで、磐石の水をんだ基台の上で(出エ一七6)悔い改めることにより蘇生することができたので、アロンを象する石板も、磐石の水の的な基台の上で、再び、蕩減件を立てることにより、復することができたのである。しかし、石板の根である磐石は、キリストとその根である神を象するものであるから、これを打った行動は挽回することができなかったのである。それでは、モセが磐石を二度打ったことは、いかなる結果をもたらしたのであろうか。モセが磐石を二度打ったことは、不信にっていくイスラエルにする血を抑えることができなかった結果であるので(詩一3233)、この行動は結局、サタンの立場で行ったこととなるのである。したがって、磐石をもって成就しようとされた「出のための理」は、再び、サタンの侵入を受けた結果となってしまったのである。
このように、セが磐石を二度打った外的な行動は、サタンの行動になってしまったが、的な情においては、その磐石から水を出して、イスラエルの民にませ、彼らを生かしたのであった。それゆえに、エジプトから出てきた外的なイスラエル民族は、ヨシュアとカレブを除いては、みな、神が予定されたカナンの地に復することができず、モセも一二〇歳を一期として望みの地を目前に眺めながら死んでいったのである(申命三四4、5)。しかし、ヨシュアがモセの代わりに(民二七1820)、磐石の水をみ、幕屋を信奉する荒野路程の中で出生した的なイスラエルを導いてカナンの地に入ったのであった(民三二1112)。
セが、磐石を二度打った行動が、サタンの侵入を受ける結果をもたらしたとすれば、その磐石からは水が出るということはあり得ないはずであったのである。それでは、どのようなわけで、そこから水が出るようになったのであろうか。第二次民族的カナン復路程において、モセはにレピデムで神の命令にい、磐石を打って水を出し、イスラエル民族にませることによって、磐石の水の基台をつくったのであった(出エ一七6)。そして、この基台の上で立てられた石板と幕屋と契約の箱は、他のすべてのイスラエル民族が不信にったときにも、四十日の食の祈りをもって立てた、幕屋のための「信仰基台」の上で、それを固く守ってきたモセ一人の信仰によって、第三次民族的カナン復路程にまで承されてきた。その後、このモセまでが、不信の立場にってしまったのであるが、神にする彼の心情はわらなかったし、また、ヨシュアが、彼の偵察四十日をもって立てた「幕屋のための基台」の上で、不の信仰をもって、石板と幕屋と契約の箱を信奉していたので、レピデムで立てられた磐石の水の基台も、ヨシュアを中心としてそのままっていたのである。
このように、セの外的な不信の行動によって、第二次の磐石が外的にはサタンの侵入を受けるようになったのであるが、彼の的なる不の心情と、ヨシュアの信仰と忠誠とによって、それが、的には、水を出してみ得るという件となったのであった。
ところで、セが磐石を二度打ったことは、結果として、サタンの立場で打ったことになるので、その石は、サタンが所有するようになったのである。したがって、その石の体としてられたイエスは、その世界的カナン復路程で、ユダヤ人たちが不信にってしまったとき、に、彼らが荒野で失ったこの磐石を、自ら取りそうとして荒野に出られたので、サタンから石をパンにえよという試練をっ先に受けられたのであった。
セがイスラエルの不信により、外的には血にはやり、磐石を二度打ったので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、荒野で死んだのであるが、的には、彼の不の心情によって磐石の水を出してませたので、的にはカナンに入ることができたのである。これは、将来、磐石の体であられるイエスがられるときにも、ユダヤ民族が不信にるようになれば、イエスもその肉身がサタンの侵入を受けて、十字架につけられるので、せての世界的カナン復は完遂することができず、復活されることによって、的にのみそれを完遂されるということを見せてくださったのであった。
セが、磐石を二度打ったのち、神は不信にっていくイスラエルに、火の蛇を送られ、彼らをかんで死ぬようにせられた(民二一6)。しかし、イスラエルが悔い改めるようになったとき、神は、モセに銅の蛇をつくらせ、それをさおの上に掛けるように計らわれ、その銅の蛇を仰いで見る人だけは救われるようにされたのであった(民二一9)。この火の蛇は、エバを落させた昔の蛇、すなわち、サタンを象したのであり(一二9)、さおの上に掛けた銅の蛇は、将来天の蛇としてられるイエスを象したのであった(ヨハネ三14)。これは神がイスラエル民族が不信にったときには、彼らをサタンに手渡されたのであったが、彼らが悔い改めて信仰を取りしたときには、再び、銅の蛇をもって生かしてくださったのと同じく、後日、イエスのときにおいても、ユダヤ人たちが不信にれ ば、神は彼らをサタンに手渡さなければならないということと、そのときにイエスは人類を生かすために、やむを得ず、天の蛇として十字架にかけられなければ ならないということと、さらにまた、不信を悔い改めて彼の十字架による救いを信ずる者は、だれでも救ってくださるということを見せてくださったのであっ た。それゆえに、イエスは「モセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(ヨハネ三14)と言われたのである。このことは事上、イエスを中心とする第三次世界的カナン復路程を、十字架による的路程として出するようにさせた遠因となったのである。
イスラエルの不信によって、モセが磐石を二度打ったとき、神は、モセがカナンの地に入ることはできないだろうと預言された(民〇・12)。これにしてモセは、神にカナンの地に入ることができるようにと哀願の祈りを切にあげたのであるが(申命三25)、彼はついに、カナンの地を目の前に見おろしながら息絶えたのであった。このようにして彼が死んだのち、その死体は葬られたが、今日までその墓を知る人は一人もいない(申命三四6)。これは将来来られるイエスも、もしユダヤ人たちが不信にれば十字架にかけられなくてはならないこと、またそのとき、できることなら死の杯を免れて、世界的カナン復を成就させてくださるようにとの哀願の祈をなさるであろうが、結局はその目的を達成することができず、亡くなられるであろうということ、さらにまた、彼の死体も葬られたのちには、その行方を知る人が一人もいないであろうということなどを、あらかじめ表示してくださったのであった。

()ヨシュアを中心とする体基台
セが磐石を二度打つことによって、イスラエル民族が磐石を中心とする「出のための理」をもってカナンに復しようとした目的は完遂されなかった。しかし、モセが磐石を二度打つことによって(民〇・1~13)、サタンが外的には侵入したが、レピデムにおける磐石の水の基台によって、的にはそのまま磐石の水を出し、イスラエル民族にませることができたという事から、先に明らかにしたように、次のような、神の理に対応する、いま一つの路程を見せてくださったのである。すなわち、イスラエル民族の中で、サタン世界であるエジプトにおいて出生し、荒野路程で不信にった、外的なイスラエルにする人たちは、偵察四十日を信仰をもって立てたヨシュアとカレブを除いては、全部が荒野で倒れてしまい、磐石の水をみ、幕屋を信奉する、荒野生活中に出生した的なイスラエルだけが、モセの代理であるヨシュアを中心として、カナンに入ったという事である(民三二11、12)。そして、神はモセに、彼はカナンの地に入ることができないと言われ、「神ののやどっているヌンの子ヨシュアを選び、あなたの手をその上におき、彼を祭司エレアザルと全衆の前に立たせて、彼らの前で職に任じなさい。そして彼にあなたの威を分けえ、イスラエルの人の全衆を彼にわせなさい」(民二七1820)と語られた。
ヨシュアは、偵察四十日期間に不信にってしまった全イスラエル民族の中で、モセが立てた幕屋のための「信仰基台」の上に雄しく立ち、わらざる信仰と忠節をもって、「幕屋のための基台」を造成し、最後までそれを信奉した、たった二人のうちの一人であった。このように、たとえモセは不信にっても、石板と幕屋と契約の箱とは、依然としてヨシュアが立てた「幕屋のための基台」の上におかれていたのである。それゆえに神は、ヨシュアをモセの代理として立てられ、その的イスラエルの民を彼に服させ、彼と共に、「幕屋のための基台」の上に立たせることによって、磐石の水を中心とする「出のための理」を成就され、この理に基づいて彼らがカナンの地に入ることにより、そこで、「落性をぐための民族的な蕩減件」を立て、第三次路程のヨシュアを中心とする「体基台」をつくらせようとされたのであった。
そして神は、「彼(ヨシュア)はこの民に先立って(カナンに)渡って行き、彼らにおまえ(モセ)の見る地をがせるであろう」(申命三28)と言われたのである。そしてまた、神は、ヨシュアにも、「わたしは、モセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。く、また雄しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らにえると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない」(ヨシュア一5、6)と言われた。セがミデヤンの荒野生活四十年を神のみ意にかなうように立てたとき、神が彼の前に現れて、イスラエル民族を、乳と蜜の流れるカナンの地へ導くようにと命ぜられたように(出エ三8~10)、神は荒野で流浪する四十年を、ひたすら信仰と忠誠とをもって過ごしてきたヨシュアを、モセの代理として召され、「わたしのしもべモセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人える地に行きなさい」(ヨシュア一2)と命令されたのである。
神からこの命令を受けたヨシュアが、民のつかさたちを呼んで、神から受けたこのようなみ旨をえたとき(ヨシュア一10)、彼らはヨシュアに、「あなたがわれわれに命じられたことをみな行います。あなたがつかわされる所へは、どこへでも行きます……だれであっても、あなたの命令にそむき、あなたの命じられる言葉に聞きわないものがあれば、生かしてはおきません。ただ、く、また雄しくあってください」(ヨシュア一1618)と答えながら、彼らは死を誓ってヨシュアにうことを決意したのであった。このように、セの使命を代理してでたヨシュアは、初臨のときの使命を承して完成するために再臨なさるイエスを象したのである。したがって、モセ路程を蕩減復するヨシュアの路程は、イエスの的復の路程を蕩減復しなければならない、彼の再臨路程にする表示的路程となるのである。
セが第二次路程でカナンの地に偵察として送った十二人がいた(民一三1、2)。彼らの中でひたすら忠誠をもって、その使命を完遂した二人の心情の基台の上に、ヨシュアは再び二人の偵察(斥候)をエリコ城に送った(ヨシュア二1)。その際、エリコ城の偵察を終えてってきた二人の偵察者は、「ほんとうに主はこのをことごとくわれわれの手におえになりました。このの住民はみなわれわれの前に震えおののいています」(ヨシュア二24)と、信仰をもって報告したのである。このとき、荒野で出生したイスラエルの子孫たちは、みなその偵察者の言葉を信じたので、これをもって、過去に四十日偵察を、み意にかなうように立て得なかった先祖たちの罪を、蕩減することができたのであった。
このように、的イスラエルが「幕屋のための基台」の上に立ったヨシュアにうことにして死をもって誓ったので、彼らはヨシュアと共に、その基台の上に立つことができたのである。こうして、彼らは、磐石の水を中心とする「出のための理」をもって、第二次路程において、三大奇跡と十災禍で、「出のための理」をなした、モセを中心とする彼らの先祖たちと同じ立場を復したのであった。したがって、モセを中心とするイスラエルが、紅海を渡る前に三日路程を立てたのと同じく、ヨシュアを中心としたイスラエルもまた、ヨルダン河を渡る前に、三日路程を立てたのである(ヨシュア三2)。また、第二次路程で三日路程をたイスラエルを、雲の柱と火の柱とが紅海まで導いたのと同じく、ヨシュアを中心とするイスラエルも、彼らが三日路程をたのちに、雲の柱と火の柱とで表象されたイエスと聖の象的な体である契約の箱が、彼らをヨルダン河まで導いたのであった(ヨシュア三3、同三8)。
そして、モセを導いていた杖によって紅海が分けられたように、ヨシュアを導いていた契約の箱がヨルダン河の水際に浸ると同時に、岸一面にあふれていたヨルダンの流れが分かれて(ヨシュア三16)、ついてきたイスラエルの民は、陸地のように河を渡ったのである(ヨシュア三17)。杖は、将来来られるイエスにする一つの表示体であったし、二つの石板とマナ、そして、芽を出したアロンの杖の入っている契約の箱は、イエスと聖の象的な体であった。それゆえに、契約の箱の前でヨルダン河の水が分かれて、イスラエルの民がたやすくカナンの地に復することができたということは、将来来られるイエスと聖の前で、水で表示されているこの罪世界(一七15)が、善ととに分立されて審判を受けたのち、すべての聖徒が、世界的カナン復を完成するようになるということを見せてくださったのである。
このとき神はヨシュアに命じられて、「民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』」(ヨシュア四2、3)と言われた。そしてイスラエルの民は、正月十日に、ヨルダン河から上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿して、ヨルダン河から取ってきた十二の石をそこに立てたのであった(ヨシュア四20)。それでは、このことはまた、何を予示しているのであろうか。に論じたように、石は将来来られるイエスを象する。したがって、十二の部族(支派)を代表した十二人が、契約の箱によって水が分かれたヨルダン河から、十二の石を取ったということは、将来十二部族の代表(型)として召命されるはずのイエスの十二人の弟子たちが、イエスのみ言によって、この罪世界が善ととに分かれるとき、そこでイエスを信奉しなければならないということを、見せてくださったのである。
彼らが十二の石を取って、カナンの地の落ち着いた宿地に、ひとところに集めて置いたとき、ヨシュアは「このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」(ヨシュア四24)と言った。これは、将来石としてられるイエスに仕える十二人の弟子たちが、一つの心で一つの目的に向かい、一つの所で一致結してこそ、世界的カナン復を完成して、神の全能性を永遠にたたえることができるということを、予示してくださったのであった。
ヤコブがどこへ行っても石の塚をつくったように、ヤコブの十二子息の子孫である十二部族(支派)の代表者たちも、十二の石を一カ所に集めて、神をたたえる祈の祭壇をつくり、将来神 殿を建築するということを見せてくださったのであるが、これはとりもなおさず、イエスの十二弟子たちが力を合わせて、イエスを神殿として信奉しなければな らないということを表示してくださったのである。後日、イエスの弟子たちが一つにならなかったとき、イエスは、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のう ちに、それを起すであろう」(ヨハネ二19)と言われた。果たして、十二弟子たちは一つになることができず、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったので、神殿であられるイエスは、十字架によってされてしまい、三日後に復活されて、ばらばらに四散してしまった弟子たちを再び呼び集められてから、初めてその弟子たちは、復活したイエスに仕えて、的な神殿として信奉するようになったのであるし、また再臨されたのちには、体の神殿として侍ることができるようになったのであった。
イスラエル民族がエジプトをたって、カナンの地に向かい、第二次路程を出するとき、その年の正月十四日の過越の祭を守ってから進軍したと同じく(出エ一二17、18)、ギルガルに宿したヨシュアを中心とするイスラエルの民も、その年の正月十四日の過越の祭を守ってのち、固く閉ざされていたエリコの城壁に向かって進軍したのであった。かくて、土から産する穀物を食べはじめたとき、四十年間けて頂いていたマナも、やんでしまったので、そのときからは人間が汗を流してつくった食糧をもって、生活しなければならなくなったし、また、サタンの都城の最後の門を通りぬけるときにおいても、人間として果たすべきその責任を、全うしなければならなかったのである。イスラエル民族は、神の命令により、四万の兵士が先頭に立ち、そのあとにつきって七人の祭司長たちが、七つのラッパを吹きながら行進し、またそのあとには、レビ部族の祭司長たちが担いだ契約の箱(ヨシュア三3)がい、最後の線にはイスラエルの全軍がいて進軍したのであった(ヨシュア六8、9)。
神が命じられたとおり、イスラエル民族は、このような行軍をもって一日に一度ずつ六日間、城を回ったのであるが、その城には何らの動も起こらなかった。彼らは忍耐と服とをもって、サタンの侵入を受けた六日間の創造期間を蕩減復しなければならなかったのである。彼らがこのような服をもって六日間を立てたのち、七日目に七つのラッパを吹く七人の祭司たちが、城を七度回りながら七度目にラッパを吹いたとき、ヨシュアがイスラエルの民に向かって、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった」と令すると、民はみなこれにじて、一に大をあげて呼ばわったので、その城が、たちまちにして崩れてしまったのであった(ヨシュア六)。このような路程は、将来、イエスの能とその聖徒たちとによって、天と地との間をふさいでいたサタンの障壁が崩れてしまうことを見せてくださったのである。それゆえに、この城壁は、再び築きあげてはならなかったので、ヨシュアは「このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、その門を建てる人は末の子を失うであろう」(ヨシュア六26)と言ったのであった。
このように、破竹の勢いをもって敵を攻したヨシュアは、ベテホロンのいにおける十九王と、メロムの激における十二王を合わせて、三十一王を滅ぼしたのであるが(ヨシュア一二9~24)、これも、イエスが王の王としてられ、他の王たちをみな屈伏させて、その民を救い、地上天を建設されるということを前もって見せてくださったのである。

③メシヤのための基台
イスラエル民族は偵察四十日のサタン分立期間を立てることができず、第二次民族的カナン復路程に失敗し、この期間を再蕩減するために第三次民族的カナン復路程を出して、荒野において四十年を流浪し、再びカデシバルネアにった。このときのモセ は、第三次路程のための「信仰基台」をつくったのであり、イスラエル民族は「幕屋のための基台」の上に立つことができたのである。ところが、その後のイス ラエルの不信と、それによって磐石を二度打ったことにより、この二つの基台はみなサタンの侵入を受けるようになったのである。そして、モセを中心としてエジプトを出した外的イスラエルは、一人らず荒野で滅ぼされてしまったのであるが、ヨシュアとカレブだけは、モセが立てた第二次路程の「信仰基台」と、幕屋のための「信仰基台」の上で、偵察四十日のサタン分立期間を信仰と忠誠をもって立てたので、「幕屋のための基台」が造成されたのである。このように、モセを中心とした外的イスラエルは、全部荒野で倒れてしまったが、幕屋を信奉する荒野生活中に出生した的イスラエルは、モセの身代わりであるヨシュアを中心として忠誠をくし、契約の箱を信奉してヨルダン河を渡り、エリコの町を打ち破って、カナンに入ったのであった。このようにして、第三次の民族的カナン復路程の「体基台」がつくられ、その結果としてこの路程の「メシヤのための基台」が造成されることによって、アブラハムのときに立てられた「メシヤのための家庭的な基台」は、彼の供え物の失敗による四〇〇年エジプト苦役の蕩減路程をたのち、初めて「メシヤのための民族的な基台」が造成されるようになったのである。ところが、に後編第一章第三節(三)を通じて詳しく論じたように、そのときに、落人間たちが、サタンを中心として、エジプト王などの大な王を建設し、天の側の復帰摂理と決していたので、ヨシュアを中心として「メシヤのための民族的な基台」が立てられたといっても、その基台の上でサタンと決することのできる天の側の王が建設されるときまでは、メシヤは降臨なさることができなかったのである。ところで、カナンに入った的イスラエルも、また不信にり、この理は、再び延長を重ねてイエスのときにまで至ったのである。

(三)モセ路程が見せてくれた
セ以後今日に至るまで、悠久なる史路程を通じて神のみ旨を信奉してきた多くの信徒たちが、モセにする聖書の記んできた。しかし、それはただ、モセ自身の史にする記であるとだけ考えてきたのであり、神が彼を通して、復帰摂理にするある秘密をえてくださろうとしたのだということを知る人は一人もいなかったのである。イエスもヨハネ福音書五章19節で、子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができないという程度にしか言われず、モセ路程の根本意義を明らかにされないまま、亡くなられたのであった(ヨハネ一六12)。
ところが、はここにおいて、モセがいかにして復路程のための、公式的な、あるいは、典型的な路程をいたかということを明らかにしたのである。これが将来、イエスのまれる道を、そのとおりに予示されたものだということについては、本章の第三節を照することによって、なお詳しく理解することができるであろう。はここにおいて、モセを中心とした理一つだけを見ても、神がおられて、一つの絶的な目的を指向し、人類史を導いてこられたということを、否定することはできなくなるのである。
つぎに、モセ路程は、人間がその責任分担を遂行することができるか否かによって、その人間を中心とする神の予定が成就されるか、されないかが決定されるということを、見せてくださったのである。神の予定も、その予定のために立てられた人物自身が、その責任分担を完遂できないと、その人物を中心としてはそれが達成されないのである。神は、モセがイスラエル民族を導いて、乳と蜜の流れるカナンの地に入ることを予定され、彼にこれを命令されたのであった。ところが、彼らが責任を全うすることができなかったので、エジプトを出したイスラエル民族の中で、ヨシュアとカレブだけがカナンに入り、りの人はみな荒野で倒れてしまったのである。
そして、神は人間の責任分担にしては一切干されず、その結果だけを見て主管なさるということを見せてくださった。神はかくも驚異的な奇跡をもって、イスラエルの民を導いてくださったのであるが、モセが石板を受ける間、彼らが金の子牛の偶像をつくった行動と、モセが磐石を二度打った行動にしては、何らの干もされなかったのであり、ただ、その結果だけを御になって、主管されたのであるが、これはどこまでも、彼ら自身が、自的にまなければならない責任分担であったからである。
また、み旨にする神の予定の絶性を見せてくださった。神が目的を予定されて、それを成就なさろうとすることは絶的であるから、モセがその責任を全うすることができなかったときには、彼の代理としてヨシュアを立ててまでも、一度予定された目的は、必ず成就されたのである。このように、神が立てられたアベル的な人物が、その使命を全うすることができないときには、カインの立場で忠誠をくした人が、彼を代理してアベルの使命を承し完成するようになるのである。イエスが「天は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ一一12)と言われたみ言は、とりもなおさず、このような事について言われたものなのである。
つぎには、大きな使命を担う人物であればあるほど、彼を試みる試練もまた、それに比例して大きいということを見せてくださった。人間始祖が、神を信じないで遠ざかったがゆえに落したのであったから、「信仰基台」を復する人物は、神が見捨てられるという試練に勝たなければならなかったのである。それゆえにモセは、神が彼を殺そうとされた試練に打ち勝ったのちに(出エ四24)、イスラエルの指導者として立つことができたのである。
そもそもサタンは、落を件として人間に対応するようになったのであるから、神も、何らの件なくして人間に恩賜を賜ることはできない。なぜなら、そうしないと、サタンが訴えるからである。ゆえに神が人間に恩賜を賜ろうとするときには、その恩賜と前後して、サタンの訴えを防ぐための試練が必ず行われるのである。セ路程でその例をげてみると、セにはパロ宮中四十年の試練があったのちに、第一次の出エジプトの恩賜が許されたのであり、またミデヤン荒野四十年の試練をたのちに、神は第二次の出エジプトの恩賜を賜ったのであった(出エ四2~9)。また神は、モセを殺そうとする試練があったのちに(出エ四24)三大奇跡と十災禍の奇跡を下さったのであり(出エ七10~)、三日路程の試練があったのちに(出エ一〇・22)雲の柱と火の柱の恩賜を賜ったのである(出エ一三21)。そしてまた、紅海の試練をてから(出エ一四2122)、マナとうずらの恩賜(出エ一六13)があったのであり、アマレクとのいによる試練(出エ一七10)があったのちに、石板と幕屋と契約の箱の恩賜(出エ三一18)があったのである。それから、四十年間荒野で流浪した試練(民一四33)があってから磐石の水の恩賜(民〇・8)があったのであり、火の蛇の試練をたのちに(民二一6)、銅の蛇の恩賜(民二一9)があったのである。モセ路程は以上のようにいろいろな訓を我してくれたのである。

 

第三節 イエスを中心とする復帰摂

(一)第一次世界的カナン復路程
(二)第二次世界的カナン復路程
(三)第三次世界的カナン復路程
(四)イエスの路程が見せてくれた

 

天使を主管すべきであったアダム(コリント3)が、落することによって逆にサタンの主管を受け、地獄をつくったのであるから、これを蕩減復するために、後のアダムとしてられるイエスは、あくまでも自分自身でサタンを屈伏させて、天を復しなければならないのである。しかし、に第一節において詳しく述べたように、神の前にも屈伏しなかったサタンが、イエスと信徒たちに順に屈伏するはずはないのであるから、神は人間を創造された原理的な責任を負われ、ヤコブとモセを立てられて、将来イエスがサタンを屈伏することができる表示路程を見せてくださったのであった。
ヤコブはサタンを屈伏させる象的路程をんだのであり、モセはサタンを屈伏させる形象的路程を、そして、イエスはその体的路程をまなければならなかったのである。それゆえに、イエスは、モセがサタンを屈伏していった民族的カナン復路程を見本として、サタンを屈伏させることによって、世界的カナン復路程を完遂しなければならなかったのである。
申命記一八章18節に神はモセにして「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう」と言われたみ言の中で、モセのような一人の預言者と言われたのは、とりもなおさず、モセのような路程をまなければならないイエスについて話されたのである。そしてヨハネ福音書五章19節を見れば、イエスは、神のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができないと記されているのであるが、これは、イエスが、神がモセを立てられて見せてくださった表示路程を、そのまままれるということを言われたのであった。詳細なことは、にモセを中心とする復帰摂理において論じたのであるが、モセを中心とする三次の民族的カナン復路程と、イエスを中心とする三次の世界的カナン復路程の全体的な輪郭を比較照しながら、イエスを中心とする復路程を論じてみることにしよう。

(一)第一次世界的カナン復路程
(1)信仰基台
第一次世界的カナン復路程において、「信仰基台」を復しなければならなかった中心人物は、洗ヨハネであった。それでは、ヨハネはいかなる立場から、その使命を完遂しなければならなかったのであろうか。モセを中心とする民族的カナン復路程において、モセが石板をしたことと、また磐石(岩)を二度打ったことは、将来イエスがられるとき、彼を中心とするユダヤ民族が不信にるならば、石板と磐石の体であられるイエスの体を打ち得るという件を、サタンに許す表示的な行動になったということについては、にモセ路程で論及したところである。
それゆえに、イエスがこの件を避けるには、彼の降臨のための基台をつくっていく選民たちが、将来来られるメシヤの形象体である神殿を中心として、一つにならなければならなかったのである。ところが、イスラエル民族は、常に不信仰の道をむようになり、将来来られようとするイエスの前に、サタンが侵入し得る件を成立させてきたので、このような件を防いで新しい理をするために、預言者エリヤがて、バアルの預言者とアシラの預言者とを合わせて、八五名を滅ぼすなど(列王上一八19)、サタン分立の役割をして昇天したのであった(列王下二11)。しかし、エリヤの全体的な使命は、全部が全部は成就できなかったので、この使命を完遂するために、彼は再臨しなければならなかったのである(マラキ四5)。このように、エリヤが果たし得なかったサタン分立の使命を担ってこれを完遂し、メシヤの道を直くするために(ヨハネ一23)、エリヤとしてた預言者が、洗ヨハネであった(マタイ一一14、マタイ一七13)。
イスラエル民族がエジプトで四〇〇年間、だれ一人導いてくれる預言者もなく、苦役をけてきたその途上で、彼らを民族的にカナンの地へ引率し、メシヤを迎えさせる人物として、神はモセを送られるようになった。これと同じように、ユダヤ人たちも、マラキ預言者以後メシヤ降臨準備時代の四〇〇年の間、だれ一人導いてくれる預言者もなく、ペルシャ、ギリシャ、シリヤ、ロマなどの異邦人たちによって苦役をいられる生活を送る途上において、ついに世界的カナン復のためにられるメシヤの前に、彼らを導くことができる人物として、洗ヨハネを送られたのであった。
エジプト苦役四〇〇年間の「サタン分立基台」の上に立っていたモセが、パロ宮中で忠孝の道をんだように、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年間の「サタン分立基台」の上に立っていた洗ヨハネは、荒野でいなごと野蜜とを食べながら、メシヤを迎えるために、天にする忠孝の道を立てたのであった。それゆえに、祭司たちをはじめとして(ヨハネ一19)、ユダヤ人たちはみな、洗ヨハネがメシヤではないかとまで思うようになったのである(ルカ三15)。洗ヨハネは、このようにして「四十日サタン分立基台」を立てたので、第一次世界的カナン復のための「信仰基台」をつくることができたのであった。

(2)体基台
ヨハネは、モセと同じ立場に立てられていたので、ユダヤ民族にして、父母と子女という二つの立場に立っていたのであった。ところで、彼は父母の立場から、第一次世界的カナン復のための「信仰基台」を蕩減復したので、同時に彼は、子女の立場から、「落性をぐための世界的な蕩減件」を立てるにたっての、アベルの立場をも確立することができたのであった(本章第二節(一)(2))。したがって、洗ヨハネは、モセがパロ宮中において四十年間の蕩減期間を送ったのち、第一次民族的カナン復のための「信仰基台」を立てたその立場を、世界的な規模で打ち立て、その土台の上に立つようになったのである。
セのとき神は、イスラエル民族に、モセがエジプト人を打ち殺すのを見せ、彼を信ぜしめることによって「出のための理」をなさろうとした。そのときには、イスラエル民族が、サタン家であるエジプトを出し、カナンの地に入らなければならなかったのであるが、洗ヨハネを中心とするユダヤ民族の場合には(サタン家である)ロマ帝を離れて他の地方に移動してはならず、その政下にいながら彼らを屈伏させその帝を神のとして復しなければならなかった。そこで神は、洗ヨハネを中心とするの奇跡を見せてくださることにより、ユダヤ人たちが彼を信ずるように仕向けることによって、「出のための理」を成就しようとなさったのである。
それゆえに、ヨハネの胎にする天使の驚くべき予告と、また、その父親がこれを信じなかったとき、になってしまった奇跡、そして、彼が生まれたときに見せてくださった奇跡などによって「近所の人はみな恐れをいだき、またユダヤの山里の至るところに、これらの事がことごとく語りえられたので、聞く者たちは皆それを心に留めて、『この子は、いったい、どんな者になるだろう』と語り合った。主のみ手が彼と共にあった」(ルカ一6566)といわれた聖書のみ言のように、イスラエル民族は、洗ヨハネが生まれたときから、彼を神がお送りになった預言者であると認めていたのである。そればかりでなく、荒野でいなごと野蜜とをもって命をつなぎながら、祈りの生活をした彼の輝かしい修道の生活により、祭司たちと(ヨハネ一19)一般のユダヤ人たちが(ルカ三15)、彼をメシヤだと誤認するぐらいに彼の信望は高かったのである。
セが、パロ宮中四十年の蕩減期間を終えて、エジプト人を殺害したとき、イスラエル民族が彼の愛心に感動し、彼を信じ彼にったならば、彼らは紅海を渡り、荒野を迂回しなくてもよかったし、また石板とか、幕屋とか、契約の箱なども必要なく、ペリシテの近道を通って、まっすぐにカナンの地に入れたはずであった。このように、イエス時のユダヤ人たちも、神の奇跡をもって信仰の象者として立ててくださった洗ヨハネを信じ、彼にったならば、彼らは「落性をぐための蕩減件」を立て、「体基台」を復することにより、「メシヤのための基台」を復することができたのであった。