第三章 人類歴史の終末論

第一節 神の創造目的完成と人間の

第二節 救いの

第三節 終末

第四節 終末と現世

第五節 終末と新しいみ言と我の姿勢

 

は、人類史がいかにして始まり、また、これがどこへ向かって流れているかということを、これまで知らずに生きてきた。したがって人類史の終末にする問題を知らずにいるのである。多くのキリスト信者たちは、ただ聖書に記されていることを文字どおりに受けとって、史の終末においては天と地がみな火にかれて消滅し(ペテロ12)、日と月が光を失い、星が天から落ち(マタイ二四29)、天使長のラッパの音とともに死人たちがよみがえり、生きった人たちはみな雲に包まれて引きあげられ、空中においてイエスを迎えるだろう(テサロニケ1617)と信じている。しかし、事、聖書の文字どおりになるのであろうか、それとも聖書の多くの重要な部分がそうであるように、このみ言も何かの比喩として言われているのであろうか。この問題を解明するということは、キリスト信者たちにとって、最も重要な問題の中の一つを解明することといわなければならない。ところで、この問題を解明するためには、まず、神が被造世界を創造なさった目的と落の意義、そして救いの理の目的など、これらの根本問題を解明しなければならないのである。

 

 

第一節 神の創造目的完成と人間の

(一)神の創造目的の完成
(二)人間の

 

(一)神の創造目的の完成
に創造原理において詳細に論述したように、神が人間を創造された目的は人間を見て喜ばれるためであった。したがって、人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本然の存在値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志にって生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである。たとえ部分的であったとはいえ、落前のアダムとエバが、そして預言者たちが、神と一問一答できたということは、人間に、このように創造された素質があったからである。
個性を完成した人間と神との係は、体と心との係をもって例えられる。体は心が住む一つの家であって、心の命令どおりに行動する。このように、個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。したがって、体と心とが一体となるように、個性を完成した人間は、神と一体となるのである。それゆえ、コリント三章16節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書一四章20節には、「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。このように、個性を完成して神の宮となることによって、聖が、そのに宿るようになり、神と一体となった人間は神性をびるようになるため、罪を犯そうとしても、犯すことができず、したがって落することができないのである。個性を完成した人間は、すなわち、神の創造目的を成就した善の完成体であるが、この善の完成体が落したとすれば、善それ自体が破される可能性を包しているという、不合理な結果になるのである。そればかりでなく、全能なる神の創造なさった人間が、完成した立場において落したとするならば、神の全能性までも、否定せざるを得なくなるのである。永遠なる主体としていまし給う、絶者たる神の喜びの象も、永遠性と絶性をもたなければならないのであるから、個性を完成した人間は、絶落することができないのである。
このように、個性完成して、罪を犯すことができなくなったアダムとエバが、神の祝福なさったみ言どおり(創一28)、善の子女を繁殖して、罪のない家庭と社とをつくったならば、これがすなわち、一つの父母を中心とした大家族をもって建設されるところの天であったはずである。はちょうど、個性を完成した一人の人間のような世界である。人間において、その頭的な命令により、四肢五体が互いに的な係をもって活動するように、その社も神からの的な命令によって、互いに的な紐を結んで生活するようになっているのである。このような社においては、ある一人の人間が苦痛を受けるとき、それを見つめて共に悲しむ神の心情を、社全体がそのまま体恤するようになるから、隣人を害するような行はできなくなるのである。
さらに、いかに罪のない人間たちが生活する社であるとしても、人間が原始人たちと同じような、未開な生活をそのまま送らざるを得ないとすれば、これは、神が望み給い、また、人間がこいねがう天だとは到底いうことができないのである。したがって、神が万物を主管せよと言われたみ言のとおりに(創一28)、個性を完成した人間たちは、科達させて自然界を征服することによって、最高に安な社環境をこの地上につくらなければならない。このような創造理想の現された所が、すなわち地上天なのである。このように人間が完成して地上天の生活を終えたのちに、肉身をぎ捨てて界に行けば、そこに天上天がつくられるのである。ゆえに、神の創造目的はどこまでも、まず、この地上において天を建設なさるところにあるといわなければならない。

(二)人間の
創造原理で詳述したように、人間は成長期間において、未完成の立場にあるとき落したのであった。人間に、なぜ成長期間が必要であったか、また、人間始祖が未完成期に落したと考えざるを得ない根はどこにあるのか、という問題なども、に創造原理において明らかにされている。人間は落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性をびることができず落性をびるようになった。このように、落性をもった人間たちがの子女を繁殖して、の家庭との社、そしての世界をつくったのであるが、これがすなわち、落人間たちが今まで住んできた地上地獄だったのである。地獄の人間たちは、神との的な係が切れてしまったので、人間と人間との的なつながりもつくることができず、したがって、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身をぎ捨てたのちにも、そのまま天上地獄に行くようになる。このようにして、人間は地上、天上共に神主の世界をつくることができず、サタン主の世界をつくるようになったのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ一二31)、あるいは「この世の神」(コリント4)と呼ぶ理由はにここにあるのである。

 

第二節 救いの

(一)救いの理はすなわち復帰摂理である
(二)復帰摂理の目的
(三)人類史はすなわち復帰摂史である

 

(一)救いの理はすなわち復帰摂理である
この罪の世界が、人間の悲しむ世界であることはいうまでもないが、神もまた悲しんでおられる世界であるということを、我は知らなければならない(創六6)。では、神はこの悲しみの世界をそのまま放任なさるのであろうか。喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の落によって、悲しみにちた罪世界となり、これが永するほかはないというのであれば、神は、創造に失敗した無能な神となってしまうのである。それゆえに、神は必ずこの罪の世界を、救わなければならないのである。
それでは、神は、この世界を、どの程度にまで救わなければならないのであろうか。いうまでもなく、その救いは完全な救いでなければならないので、神はどこまでもこの罪の世界から、サタンのの勢力を完全に追放し(使徒二六18)、それによって、まず、人間始祖の落以前の立場にまで復なさり、その上に善の創造目的を完成して、神が直接主管されるところまで(使徒三21)、救いの理をなしていかなければならないのである。病にかかった人間を救うということは、病になる以前の態に復するということを意味するし、水に溺れた人を救うということは、すなわち、水に溺れる以前の立場にまで復するという意味なのである。罪にった者を救うということは、その者を罪のない創造本然の立場にまで復させるという意味でなくて何であろうか。それゆえに、神の救いの理は、すなわち復帰摂理となるのである(使徒一6、マタイ一七11)。
落は、もちろん人間自身の過ちによってもたらされた結果である。しかし、どこまでも神が人間を創造されたのであり、それによって、人間の落という結果も起こり得たのであるから、神はこの結果にして、創造主としての責任を負わなければならない。したがって、神はこの誤った結果を、創造本然のものへと復するように理なさらなければならないのである。神は永存なさる主体であるから、その永遠なる喜びの象として創造された人間の命もまた、永遠性をもたなければならない。人間には、このように、永遠性をもって創造された創造原理的な基準があるので、たとえ落した人間であるとしても、これを全く消滅させてしまい、創造原理を無してしまうわけにはいかないのである。それゆえに、神は落人間を救し、その創造本然の立場にまで復なさらなければならないのである。
、神は人間を創造されて、三大祝福をえてくださることを約束なさったので(創一28)、イザヤ書四六章11節に「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」と言われたように、サタンのために失ったこの祝福を復する理をなさることによって、その約束のみ旨を成し遂げてこられたのである。マタイ福音書五章48節にイエスが、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と弟子たちに言われたことも、とりもなおさず、創造本然の人間に復せよという意味であった。なぜなら、創造本然の人間は、神と一体となることによって神性をびるようになるから、創造目的を中心として見るときには、神のように完全になるので、こう言われたのである。

(二)復帰摂理の目的
それでは、帰摂理の目的は何であろうか。それは本神の創造目的であった、善の象である天をつくることにほかならない。元、神は人間を地上に創造なさり、彼らを中心として、まず地上天を建設しようとされたのである。しかし、人間始祖の落によって、その目的を達成することができなかったので、復帰摂理の第一次的な目的も、また、地上天を復することでなければならないのである。帰摂理の目的を完成するためにられたイエスは「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ六10)と祈れと言われたり、「悔い改めよ、天は近づいた」(マタイ四17)と言われたが、これらのみ言は、みな、復帰摂理の目的が、地上天を復するところにあったということを立証するのである。

(三)人類史はすなわち復帰摂史である
に、神の救いの理はすなわち復帰摂理であるということを明らかにした。このことからして、人類史は、落した人間を救い、彼らをして創造本然の善の世界に復させるためになされた史であるといわなければならない。それでは、果たして人類史がすなわち復帰摂理の史であるかどうかということを、我はここで、各方面から考察してみることにしよう。
第一に、文化圏発展史の立場から考察してみることにする。古今東西を問わず、いかなる人であっても、を捨てて善におうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。だから、何が善であり、いかにすればその善をなすことができるかということは、知能にすることであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。では何故、人間の本心は、いかなるものによっても取り押さえることのできない力をもち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の象として、人間を創造なさったからで、たとえ落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのままっているからである。したがって、このような人間たちによってつくられてきた史の進みいくところは、結局善の世界でなければならない。
人間の本心がいかに善を指向して努力するとしても、の上におかれているこの世界においては、その善の相を見ることができなくなってしまっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。このような必然的な要求によって誕生したのが、すなわち宗なのである。このように、落によって神を失ってしまった人間は、宗をつくり、絶えず善を探し求めて、神に近づこうとしてきたので、たとえ宗を奉じてきた個人、民族、あるいは家は滅亡したとしても、宗それ自体は今日に至るまで、絶えることなく継続してそのままってきたのである。それでは、このような史的な事を、家興亡史を中心として、討してみることにしよう。
まず、を見ると、春秋戦国の各時代をて、秦統一時代が到し、そして前漢、新、後漢、三、西晋、東晋、南北朝の各時代をて、隋唐統一時代がきた。さらに、五代、北宋、南宋、元、明、の時代をて、今日の中華民に至るまで、複家の興亡と、政の交代を重ねてきたのであるが、今日に至るまで、儒、、仙の極東宗だけは、然としてっているのである。つぎにインドのをひもといてみても、マウリア、アンドラ、クシャナ、グプタ、ヴァルダナ、サマン、カズニ、ムガル帝て、今日のインドに至るまで、家の遷は極まりなく繰り返してきたわけであるが、ヒンズー教だけは衰えずにそのままっているのである。また、中東地域のを見れば、サラセン帝、東西カリフ、セルジュクトルコ、オスマントルコなど、家の主は幾度かわってきたのであるが、彼らが信奉するイスラムだけは、連綿としてその命脈がちきられることなく承されてきたのである。つづいて、ロッパ史の主流において、その証を求めてみることにしよう。ヨロッパの主導はギリシャ、ロマ、フランク、スペイン、ポルトガルをて、一時フランスとオランダを由し、英に移動し、それが、米とソ連に分かれ今日に至っているのである。ところが、その中においても、キリストだけはそのまま興隆してきたのであり、唯物史の上にたてられた制政体下のソ連においてさえ、キリストは、今なお滅びずにっている。このような見地から、すべての家興亡の足跡を深く顧みるとき、宗を迫害したは滅び、宗を保護し育成したは興隆し、また、そのの主は、より以上に宗を崇するへと移されていったという史的な事を、我多く見することができるのである。したがって、宗を迫害している共産主義世界の破滅の日が必ずくるであろうということは、宗史が証的にこれを裏付けているのである。
史上には多くの宗が生滅した。その中で影響力の大きい宗は、必ず文化を形成してきたのであるが、文に現れている文化だけでも、二十一ないし二十六をえている。しかし、史の流れにって、次第に劣等なものはより優秀なものに吸されるか、あるいは融合されてきた。そして近世に至っては、前に列したように、多くの家興亡の波の中で、結局、極東文化、印度文化、回文化、キリスト文化の四大文化だけがされてきたのであり、これらはまた、キリストを中心とした一つの世界的な文化を形成していく趨勢を見せているのである。ゆえに、キリストが、善を指向してきたすべての宗の目的を、同時に達成しなければならない最終的な使命をもっているという事を、我はこのような史的な趨を見ても、理解できるのである。このように、文化展史が多くの宗の興亡、あるいは融合によって、結局、一つの宗を中心とする世界的な文化を形成していくという事は、人類史が、一つの統一世界へと復されつつあることを証立てるものである。
第二に、宗と科の動向から見ても、我は、人類史が復帰摂理の史であるということを知ることができる。落人間の面の無知を克服するために生じた宗と科が、今日に至っては、統一された一つの課題として、解決されなければならないときがきたということは、序において論じた。このように有史以、互いに連することなく自的に達してきた宗と科が、今日に至って、各その行くべきところに到達し、一つのところで、互いに相合わなければならないようになったという事は、人類史が今まで、創造本然の世界を復する理路程をいてきたということを、我に物語っているのである。もし人間が落しなかったとすれば、人間の知能は、的な面において最高度に向上したであろうから、肉的な面においても最高度に達し、科はそのとき、ごく短期間のに驚くほど向上したはずであった。したがって、今日のような科は、に人間始祖時において成就されるはずであったのである。しかし、人間は落によって無知にり、そのような社をつくることができなかったから、悠久なる史の期間をて、科をもってその無知を打開しながら、創造本然の理想的科を復してきたのである。
しかし、今日の科は極めて高度に達し、外的には理想社へと換することのできる、その前段階にまで復されてきている。
第三に、闘争歴史の趨から見ても、人類史は復帰摂史であるという事を知ることができる。財産を奪い、土地を略奪し、人間を奪いあう闘争は、人間社達とともに展開され、今日に至るまで悠久なる史の期間を通じて、一日も絶えることなくいてきたのである。すなわち、このいは家庭、氏族、民族、家、世界を中心とするいとして、その範め、今日に至っては、民主と共産の二つの世界が最後の闘争を挑むというところにまで至っている。今や、人類史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、あるいは人間を奪いとれば幸福を進させることができるだろうと考えてきた史的な段階を越えて、民主主義という名をげて、この世に到してきたのである。第一次世界大が終わったのちは、敗戦国家が植民地を奪われたが、第二次大後においては、家が次に植民地を解放する現象が現れてきた。一方、今日の家は、それらの一つの都市よりも小さい弱小家を連に加入させ、それらの経済的に援助するだけでなく、自分たちと同等な利と義務とをえ、すべて兄弟家として育成しつつあるのである。それではこの最後のいというのはどのようなものであろうか。それは理念のいである。しかし、今日の世界を脅かしている唯物史を完全に覆すことができる理が現れない限り、民主主義陣と共産主義陣の二つの世界のいは、永遠に絶えることがないであろう。それゆえに、宗と科とを、統一された一つの課題として解決することのできる理が現れるとき、初めて、宗を否定して科偏重の達を遂げてきた共産主義思想は覆され、二つの世界は一つの理念のもとに、完全に統一されるのである。このように、闘争歴史の趨から見ても、人類史は、創造本然の世界を復する史であるということを否定することはできないのである。
第四に、我は聖書を中心として、より詳しく、この問題について調べてみることにしよう。人類史の目的は、生命の木(創二9)を中心とするエデンの園を復するところにある(前編第二章第一節(一))。ところで、エデンの園とは、アダムとエバが創造された、あの局限地域をいうのではなく、地球全体を意味するのである。もしエデンの園を、人間始祖の創造された、ある限定された地域だけを指していうのだとすれば、地にちるほど生めよ殖えよと言われた神の祝福のみ言(創一28)によって、繁殖するであろう多くの人類が、いったいどうしたらそのい所にみな住むことができるのであろうか。
人間始祖が落したために、神が「生命の木」を中心としてたてようとしたエデンの園は、サタンの手に渡されてしまったのである(創三24)。ゆえに、アルパで始められた人類罪悪歴史が、オメガで終わるときの落人間の願望は、罪をもって色染められた着物をく洗い、復されたエデンの園にっていき、失った「生命の木」を、再び探し求めていくところにあるのだと二二章13節以下には記されている。では、聖書のいうこれらの容は、何を意味するのであろうか。
に、落論において明らかにされているが、「生命の木」とは完成したアダム、すなわち、人類のの父を意味しているのである。父母が落して、その子孫もまた原罪をもつ子女たちとなったので、この罪の子女たちが、創造本然の人間にまで復するためには、イエスのみ言どおり、すべての人間が重生しなければならないのである(重生論照)。したがって、史は、人類を再び生んでくださるの父であられるイエスを探し求めてきたのであるから、史の終末期において、信徒たちが願望し、探し求めていくものとして記されているヨハネの「生命の木」とは、とりもなおさずイエスのことをいうのである。我は、このような聖書の記を見ても、史の目的は、「生命の木」としてられるイエスを中心とした、創造本然のエデンの園を復するところにあるということを理解することができる。二一章1節から7節にも、史の終末においては、新しい天と新しい地とが現れるであろうと記されているが、これはまさしくサタンの主管下にあった、先の天と地が、神を中心とするイエスの主管下の、新しい天と新しい地に復されるということを意味するのである。ロマ書八章19節から22節には、サタン主管下にうめき嘆いている万物も、終末に至って火にかれてなくなるのではなく、創造本然の立場に復されることにより、新たにされるために(二一5)、自己を主管してくれる、創造本然の神の子たちが新たに復されて出現することを待ち望んでいると記されている。我は、このように各方面から考察してみるとき、人類史は、創造本然の世界に復する史であるということを、明らかに知ることができるのである。

 

 

第三節 終末

(一)終末の意義
(二)終末の候にする聖句

 

(一)終末の意義
神が、人間始祖にえられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的に成就されたのだということを、我に述べた。ところが、によって始められた人類史は、事上、神の復帰摂史であるがゆえに、サタン主の罪世界はメシヤの降臨を換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主の世界にえられるようになるのである。
このように、サタン主の罪世界が、神主の創造理想世界に換される時代を終末(末世)という。したがって終末とは、地上地獄が地上天わるときをいうのである。それゆえにこのときは、今までキリスト信徒たちが信じてきたように、天地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、悠久なる史路程を通して、人類が唯一の希望としてこいねがってきた喜びの日が現されるときなのである。詳しくは、後編第一章にることにするが、神は人間の落以、罪世界を算して創造本然の善の世界を復するための理を、幾度もしてこられたのであった。しかしそのたびごとに人間はその責任分担を完遂し得ず、その目的が成就されなかったので、結果的には、終末が幾度もあったかのように記されている事を、我は聖書を通して知ることができるのである。

(1)ノアの時も終末であった
創世記六章13節の記を見れば、ノアのときも終末であったから、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐でたしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」と言われたのである。それではどうしてノアのときが終末であったのか。神は、人間始祖が落したために始まったサタンを中心とする落世界を、一六〇〇年の罪史を一期として、洪水審判をもって滅ぼし、神のみを信奉するノア家庭を立てることにより、その信仰の基台の上に、神主の理想世界を、復なさろうとしたのであった。したがって、ノアのときは終末であったのである(後編第三章第二節照)。しかし、ノアの次男ハムの落行によって、彼が人間の責任分担を完遂できなかったために、この目的は達せられなかったのである(創九22)。

(2)イエスの時も終末であった
帰摂理の目的を完遂なさろうとする、そのみ旨にする神の予定は、絶的であるがゆえにえることができないから(前編第六章)、ノアを中心とする復理は成就されなかったのであるが、神は再び他の預言者を遣わして、信仰の基台を築いて、その基台の上にイエスを送ることにより、サタンを中心とする罪の世界を滅ぼして、神を中心とする理想世界を復なさろうとしたのであった。したがって、イエスのときも終末であったのである。それゆえにイエスは自ら審判主としてられたと言われたのであり(ヨハネ五22)、そのときもまた、「万軍の主は言われる、見よ、のように燃える日がる。その時すべて高ぶる者と、を行う者とは、わらのようになる。そのる日は、彼らをして、根も枝もさない」(マラキ四1)と預言されていたのであった。イエスはこのように、創造理想世界を復なさろうとしてられたのであるが、ユダヤ人たちが彼を信ぜず、人間の責任分担を完遂し得なかったので、この目的も達せられず、再臨のときまで再び延長されたのである。

(3)イエスの再臨のときも終末である
ユダヤ民族の不信に出ったイエスは、十字架につけられて亡くなられることにより、的救いのみを成就されるようになったのである。したがってイエスは、再臨して初めて、肉合わせて、救いの理の目的を完遂され(前編第四章第一節(四))、地上天を復するようになるので、イエスの再臨のときもまた終末である。ゆえにイエスは、「ノアの時にあったように、人の子の時にも同なことが起こるであろう」(ルカ一七26)と言われたのであり、また御自身が再臨なさるときも、終末となり、天地異が起こるであろうと預言されたのであった(マタイ二四29)。

(二)終末の候にする聖句
に上述したように、多くのキリスト信徒たちは、聖書に記されている文字どおりに、終末には天地異が起こり、人間社においても、現代人としては想像することもできない異が起こるであろうと信じている。しかし、人類史が、神の創造本然の世界を復していく史であるということを理解するならば、聖書に記されている終末の候が、そのまま際に、文字どおりに現れるのではないということを知ることができるのである。それでは、終末にするすべての記は、各何を象したのであろうかということにして、調べてみることにしよう。

(1)天と地を滅ぼして(ペテロ12、創六13
新しい天と新しい地をつくられる(二一1、ペテロ13、イザヤ六六22
創世記六章13節を見れば、ノアのときも終末であったので、地を滅ぼすと言われたのであるが、際においては滅ぼされなかった。道の書一章4節に「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠にらない」と言われたみ言、あるいは、詩篇七八篇69節に、「神はその聖所を高い天のように建て、とこしえに基を定められた地のように建てられた」と言われたみ言を見ても、地は永遠なるものであるということを知ることができる。主体なる神が永遠であられるから、その象もまた、永遠なるものでなければならない。したがって、神の象として創造された地も、永遠なるものでなくてはならない。全知全能であられる神が、サタンによって破滅し、なくなるような世界を創造されて、喜ばれるはずはないのである。それでは、そのみ言は何を比喩されたものであろうか。一つのを滅ぼすということは、その主を滅ぼすということを意味するのであり、また、新しいを建設するということは(二一1)、新しい主を建てるということを意味するのである。したがって、天と地とを滅ぼすということは、それを主管しているサタンの主を滅ぼすことを意味するのであり、また、新しい天と新しい地をたてるということは、イエスを中心とする神主下の新しい天地を復するということを意味するのである。

(2)天と地を火をもって審判される(ペテロ12
ペテロ三章12節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体はけうせてしまう」と記されている。また、マラキ書四章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主としてられ(ヨハネ五22、同九39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書一二章49節には、イエスは火を地上に投じるためにられたとある。しかし際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我見 することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書三章6節に「舌は火である」と言われたみ言か らすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであるから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であ るということを知ることができるのである。
では我は、ここにおいて、み言をもって審判されるという聖句の例を取りあげてみることにしよう。
ヨハネ福音書一二章48節には、イエスを捨てて、そのみ言を受け入れない人を裁くものがあるが、イエスが語られたそのみ言が、終わりの日にその人を裁くであろう、と記されており、さらにテサロニケ二章8節には、そのときになると、不法の者が現れるが、この者を主イエスは、口の息をもって殺すであろうと記しているのである。そしてまた、イザヤ書一一章4節においては、その口のむちをもってち、その唇の息をもってしき者を殺すと言われており、ヨハネ福音書五章24節を見れば、イエスは自分の言葉を聞いて、神を信ずる者は裁かれることがなく、死から命に移ると言われている。このように火の審判は、すなわち、み言の審判を意味するのである。
それでは、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのであろうか。ヨハネ福音書一章3節に、人間はみ言によって創造されたと記されている。したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで落し、その目的を達することができなかったのである。それゆえに、神は再びみ言によって、落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、理(聖書)による復帰摂理なのである。ヨハネ福音書一章14節には、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその光を見た。それは父のひとり子としての光であって、めぐみとまこととにちていた」と記されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。このように、帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行われなければならないのである。ルカ福音書一二章49節に、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスがみ言の体としてられ(ヨハネ一14)、命のみ言をに宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人たちがこれを受け入れないのを御になって、嘆きのあまり言われたみ言であった。

(3)墓から死体がよみがえる(マタイ二七52、テサロニケ16
マタイ福音書二七章52節以下を見ると、イエスが亡くなられるとき、「墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」と記されているのであるが、これは、腐敗してしまった彼らの肉身が、再び生き返ったということを意味するものではないのである(前編第五章第二節(三))。もし、界にとどまっていた約時代の信徒たちが、聖書の文字どおりに墓からよみがえり、都にいた多くの人に見えたとすれば、彼らにはイエスがメシヤであるということが分かったわけであるから、必ずユダヤ人たちに、イエスがメシヤであるということを証明したはずである。もしそう行動したならば、イエスはそのときに十字架で亡くなられていたとしても、彼らの証言を聞いて、イエスを信じない人は、一人もいなかったであろう。また、そのように約時代の聖人たちが、再び肉身をつけて墓から起きあがったとすれば、その後の彼らの行跡にする記事が、必ず聖書にっていなければならないはずである。しかし、聖書には彼らにする何らの記事も、このほかの箇所には記載されていない。では、墓からよみがえったものは、いったい何であったのであろうか。それはあたかもモセとエリヤの人体が、貌山上においてイエスの前に現れたように(マタイ一七3)、約時代の人たちが、再臨復活のために地上に再臨したのを的に見て(前編第五章第二節(三))記した言葉だったのである。では墓は何を意味するのであろうか。イエスによって開かれた園から見れば、約時代の聖徒たちがとどまっていた形体級の人の世界は、より暗い世界であるために、そこをして墓と言ったのである。約時代の人たちは、すべてこの界にいたのであるが、そのとき再臨復活して、地上信徒たちの前に現れたのであった。

(4)地上人間たちが引きあげられ空中で主にう(テサロニケ17
ここに記されている空中とは、空間的な天を意味するのではない。大抵聖書において、地は落したの世界を意味し、天は罪のない善主の世界を意味する。これは、あまねくいまし給う神である限り、地のいずこにも遍在すべきであるにもかかわらず、「天にいますわれらの父よ」(マタイ六9)と言われ、また、イエスは地において誕生されたにもかかわらず、「天から下ってきた者、すなわち人の子……」(ヨハネ三13)と言われたことを見ても、そのことが分かるのである。それゆえに、空中で主にうということは、イエスが再臨されてサタンの主を倒し、地上天を復されることによってたてられる、その善主の世界において、主とうようになるということを意味するのである。

(5)日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ二四29
創世記三七章9節以下を見れば、ヤコブの十二人の子供たちのうち、十一番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その容について「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしをみました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたをむのか』」と記されている。ところがヨセフが成長して、エジプトの理大臣になったとき、まさしくこの夢のとおり、その父母と兄弟たちが彼をんだのである。
この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象したのであり、星は子女たちを象したものだということを知ることができる。キリスト論で述べるように、イエスと聖はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださるの父母としてられたのである。それゆえに、日と月はイエスと聖を象しているのであり、星は子女に該するキリスト徒たちを象しているのである。
聖書の中で、イエスをの光に例えたのは(ヨハネ一9)、その肉体がみ言によってつくられたお方としてられ(ヨハネ一14)、理の光をしたからであった。ゆえに、ここでいっている日の光とは、イエスの言われたみ言の光をいうのであり、月の光とは、理のみとしてられた聖(ヨハネ一六13)の光をいうのである。したがって、日と月が光を失うというのは、イエスと聖による新約のみ言が、光を失うようになるということを意味するのである。では何故、新約のみ言が、光を失うようになるのであろうか。それはちょうど、イエスと聖られて、約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、約のみ言が光を失うようになったと同に、イエスが再臨されて、新約のみ言を成就し、新しい天と新しい地とをたてられるので(二一1)そのときの新しいみ言によって(本章第五節(一)照)初臨のときに下さった新約のみ言はその光を失うようになるのである。ここにおいて、み言がその光を失うというのは、新しい時代がくることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさるということを意味する。
また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト徒たちがつまずき落ちるようになる、ということを意味するのである。メシヤの降臨を熱望してきたユダヤの指導者たちが、メシヤとしてられたイエスを知らず、彼に反して落ちてしまったように、イエスの再臨を熱望しているキリスト徒たちも、十分注意しないと、その日にはつまずき落ちてしまうであろうということを預言されたのである(後編第六章第二節照)。ルカ福音書一八章8節に、「しかし、人の子がるとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言、あるいは、マタイ福音書七章23節に、イエスが再臨されるとき、信仰の篤い信徒たちに向かって「不法をく者ども」と責められ、さらに、「行ってしまえ」と、排斥されるようなことを言われたのも、とりもなおさず、終末において、信徒たちがつまずき落ちるということを予知され、そのように警告されたのである。

 

第四節 終末と現世

(一)第一祝福復の現象
(二)第二祝福復の現象
(三)第三祝福復の現象

 

イエスが、将来訪れるであろうペテロの死にして話しておられるとき、そのみ言を聞いていたペテロが、ヨハネはどうなるのでしょうか、と質問した。これにしてイエスは、「たとい、わたしのる時まで彼が生きっていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」(ヨハネ二一22)と答えられた。それゆえに、このみ言を聞いた使徒たちは、みなヨハネが生きているうちに、イエスが再臨されるだろうと信じていたのである。そればかりでなく、マタイ福音書一23節を見れば、イエスはその弟子たちに、「あなたがたがイスラエルの町を回り終らないうちに、人の子はるであろう」と言われており、また、マタイ福音書一六章28節には、「人の子が御の力をもってるのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と、言われたのである。
このようなみ言によって、イエスの弟子たちもそうであったが、その後、今日に至るまでの多くの信徒たちは、各が、自分の代に、イエスがられるということを信じていたので、彼らは、常に終末であるという切迫感から逃れることができなかったのである。これは、終末にする根本的な意義を知らなかったからであった。は今ここにおいて、神が復帰摂理の目的として立て、それを成就しようとしてこられた三大祝福が復されていく現象を見て、現代がすなわち終末であるということを、立証することができるのである。それゆえにイエスは、「いちじくの木からこの譬をびなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ二四32)と、言われたのである。

(一)第一祝福復の現象
に創造原理において論じたように、神がアダムとエバに約束された第一祝福は、彼らが個性を完成することを意味するのである。落人間をして、個性完成した創造本然の人間へと復してこられた神の理が、その最終段階に至っているということは、次のような各種の現象を見ても知ることができる。
第一に、落人間の心が復されていくのを見て、それを知ることができる。人間が完成すれば、完全に神と心情的に一体化し、互いに相通ずるように創造されたということは、に述べたとおりである。それゆえに、アダムとエバも、不完全な態ではあったが、神と一問一答した段階から落し、その子孫たちは、神を知らないところにまで落ちてしまったのである。このように、落してしまった人間が、復帰摂理の時代的な恩を受けるようになるにって、漸次その心が復されるので、終末に至っては、使徒行二章17節に「終りの時には、わたしのをすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」と言われたみ言のように、多くの信徒たちが、神と通するようになるのである。そこで、現世に至り、通する信徒たちが雨後の竹の子のように現れるのを見れば、現世は終末であるがゆえに、人間が個性を完成し神の第一祝福を復することのできる、そのような時代に入っているということを知ることができる。
第二に、落人間が、本心の自由を復していくという史的な趨が、これまた、それを示しているのである。人間は落によってサタンの主管下におかれ、本心の自由が拘束されるようになったので、神の前に出ていくことのできる自由を失ってしまった。ところが現世に至っては、肉体の命を捨ててまでも、本心の自由を求めようとする心情が高められてくるが、これは、終末になって個性を完成することにより、落人間が、サタンに奪われた神の第一祝福を復し、神の前に自由に出ていくことのできる時代に入っているからなのである。
第三に、落人間の、創造本然の値性が復されていく現象を見て、そうであるということを、より確かに知ることができる。つまり人間の創造本然の値は、的に見るときすべて同等であるがゆえに、その値は、大して貴重なもののようには感じられないのであるが、天を中心として的に見るとき、各個性は、最も尊い天宙的な値を、それぞれもっているのである(前編第七章第一節)。
に人間は、落することによって、このような値をみな失ってしまったのである。ところが現代に至り、民主主義思想が高潮して、人は奴隷解放、人解放、弱小民族解放などを主張しながら、人擁護と男女平等、そして万民平等を叫ぶことによって創造本然の個性の値を、最高度に追求するようになったのであるが、これはとりもなおさず終末となり、落人間が失った神の第一祝福を復できる時代に入っているということを証するものである。
第四に、落人間の本性の愛が復されていくという事が、個性を完成していく終末のときの到を更に証明してくれる。神の創造理想を完成した世界は、完成した一人の人間の姿の世界であって、その世界の人間は、みな神と的に一体となっているがゆえに、人間相互間においても的に一体とならなければならないのである。したがって、この世界はもっぱら、神の愛をもって縦横に結ばれ、一つの体のようにならざるを得ないのである。しかし、人間は落によって神との的な愛の係をたれてしまったので、人間同士の的な愛も切され、人類史は闘争のもつれによって流れてきた。しかし、現代に至っては博愛主義思想が高潮してくるにい、人間が漸次、その本性愛を探し求めてきているのを見ても、現代は神の第一祝福を復することにより、神の愛を中心として個性を完成することができる終末に入っている、という事を知ることができるのである。

(二)第二祝福復の現象
神の第二祝福は、アダムとエバがの父母として完成し、善の子女を繁殖することにより、善主の家庭と、社と、世界を成就するようになるということを意味する。しかし、アダムとエバは落しての父母となったので、全人類はの子女となり、に拘束された世界をつくってしまったのである。しかし神は一方に宗を立てて理することにより、的なサタン分立による心理をされ、また、他方においては、闘争戦争による外的なサタン分立をすることにより、面における主理をしてこられたのである。このように人類史は、面のサタン分立による復帰摂理を通じて、将来の親であられるイエスに仕えることのできる子女を探し求めて、神の第二祝福を復してきたから、それは宗を中心とする文化展史と家興亡史とに現れた面における神の主の現象を見ることによって、現世がすなわち終末であるということを知ることができるのである。
はまず、文化圏発展史がどういうふうに流れてきて、現代を終末へと導いているのかを明らかにしよう。文化圏発展史にする問題は、に幾度か論じてきたが、神は落人間に聖賢たちを遣わされ、善を指向する人間の本心にって、宗を立たしめ、その宗を中心とする文化を起こしてこられたのである。それゆえに、史上には多くの文化が形成されたのであるが、時代が流れるにって、これらは互いに融合、あるいは吸され、現代に至っては、キリストを中心とする一つの世界的な文化をつくっていく趨勢を見せているのである。このような史的な趨勢は、キリストの中心であるイエスを中心として、すべての民族が、同じ兄弟の立場に立つようになるということによって、神の第二祝福が復されつつあるという事を示しているのである。
キリストが他の宗と異なるところは、全人類のの父母を立てて、その父母によってすべての人間が重生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復するところに、その目的があるという点である。これはとりもなおさず、キリストが、復帰摂理の目的を完成する中心的な宗であるということを意味するのである。このように、現世に至っては、世界がキリストを中心として一つの文化を形成し、人類のの父母であられるイエスと聖(前編第七章照)を中心として、すべての人間が善の子女の立場に立つことにより、神の第二祝福復の現象を見せている。このような事を見ても我は現代が終末であるということを否定することができないのである。
つぎに我は、家興亡史がどのように主の目的に向かって流れてきて、現代を終末へと導いているかについて調べてみることにしよう。闘争戦争を、純にある利害係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本理を知らないところからくる薄な考え方である。人類史は人間始祖の落により、サタンを中心とするをもって出し、罪の世界を形成してきたのである。しかし、神の創造目的がっている限り、その史の目的も、あくまでサタンを分立して神の善主を復するところになければならない。もし、の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永するはずであり、したがって、善主は永遠に復できないのである。それゆえに、神は落人間に聖賢たちを遣わされ、善を立て、宗を起こすことによって、より善なる主をして、よりなる主を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主を復なさる理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争戦争という過程をなければならない。この問題にしては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類史は蕩減復理路程をいていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局敗北し、より善なる版図内に吸されていったのである。それゆえに、戦争による家の興亡盛衰は、善主を復するための理路程から起こる、不可避的な結果であったといわなければならない。ゆえに神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令にわず、アマレク族とそれにする家畜を全滅させなかったために、罰を受けたのである(サムエル上一五1823)。神はこのように、直接異民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼らをアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下一七23)。神がこのようにされたのは、ひたすらを滅ぼして、善主を復なさろうとしたからであったということを、我は知らなければならない。ゆえに、同じ天の側における個人的な闘争は、善主自体を破する結果となるがゆえにとなるのであるが、善主を滅ぼすことは、神の復帰歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。こうして、サタン分立のための闘争歴史は、次第に土地と財物とを奪って、天の側の主へと復するに至ったのであり、人間においても個人より家庭、社、そして家へと、天の側の基台をめ、今日に至っては、これを世界的に復するようになったのである。このように、サタン分立のための理が氏族主義時代から出し、封建主義時代と君主主義時代をて、民主主義時代に入って今日に至っているが、今やこの人間世界は、天の側の主を立てようとする民主主義世界と、サタンの側の主を立てようとする共産主義世界との、二つの世界に分立されている。
このように、サタンを中心とするによって出した人類史は、一方において、宗と哲と倫理によって、善を指向する人間の創造本性が喚起されるにい、漸次、から善主のための勢力が分立され、ついに、世界的に立する二つの主を形成するに至ったのである。しかるに、目的が相反するこの二つの主は、決して共存することができない。したがって、人類史の終末に至れば、これらは必ず一点において交差し、理念を中心として的に衝突し、それが原因となって軍事力を中心とする外的な戦争が行われ、結局サタン主は永遠に滅び、天の側の主のみが永遠なる神の一主として復されるのである。しかるに現代は、善主を指向する天の側の世界と、サタンを中心とするの世界とが立して、互いに交差しているときであるから、ここから考えてもまた、終末であるといわなければならない。
このように、から善主を分立してきた人類史は、ちょうど、荒れ狂う濁流が時間をるにって、泥は水底に沈み、水は上の方に澄んで、ついには泥と水とが完全に分離されるように、時代が進むにつれて、は次第に衰亡の道をたどって下降線を描き、善主は興隆の道をたどって上昇線を描くようになるので、史の終末に至っては、この二つの主はある期間交差したのち、結局、前者は永遠に滅亡してしまい、後者は神の主として永遠にるようになるのである。
このように、善二つの主史路程が交差するときを終末という。そしてさらにこのときは、アダムとエバが落した長成期完成級の時期を、蕩減復するときであるから、あたかもエデンの園の人間始祖が、どこに中心をおくべきかを知らずに、混沌の中にっていったように、いかなる人間も思想の混を起こして、彷徨するようになるのである。
帰摂理路程において、このように終末を迎えて、善二つの主が交差していたときは、幾度かあった。に述べたように、ノアのときやイエスのときも終末であった。ゆえに、この二つの主が互いに交差していたのである。しかしそのたびごとに、人間はその責任分担を完遂できず、を全滅することができなかったので、神は主分立の理を再びなし給わなければならなかった。したがってイエスの再臨期に、いま一度、二つの主の交差があるのである。復帰摂理路程は、このように、周期的に相似的な螺旋を反復しながら、円形過程を通りつつ創造目的を指向してきたから、史上においては必然的に、同時性の時代が形成されてきたわけである(後編第三章第一節照)。

(三)第三祝福復の現象
神の第三祝福はアダムとエバが完成して、被造世界にする主管性をもつようになることを意味する。そして、被造世界にする人間の主管性には、面の主管性がある。人間は落によってこの面の主管性を失ったのであるが、現代に至って、これが復されつつあるのを見て、現代が終末であるということを知ることができるのである。
的主管性というのは、心情的主管性を意味する。すなわち人間が個性を完成すれば、神と心情的に一体化し、神の心情をそのまま体恤することができるのである。このように、人間が完成することにより、被造世界にする神の心情と同一の心情をもって、被造世界にして愛をえ美を受けるようになるとき、人間は被造世界にする心情的な主管者となるのである。けれども人間は、落して神の心情を体恤できなくなってしまったので、神の心情をもって、被造世界にすることもできなくなったのである。しかし、、哲、倫理などによる神の復帰摂理によって、神にする落人間の心は、漸次開されて明るくなり、現代に至っては、被造世界にする心情的な主管者の資格を復しつつあるのである。
つぎに、外的主管性とは、科による主管性を意味する。もし人間が完成して、被造世界にする神の創造の心情と同一の心情をもって、被造世界を的に主管できたならば、人間の感は高度に達することができたはずであるから、科達も、極めて短時日に最高度のものにまで達し得たはずであったのである。このようになって初めて、人間は被造物にする外的な主管をなし得るのである。したがって、人間は早くから天体をはじめとして、自然界全体を完全に主管できるばかりでなく、科達に基づく経済発展によって、極めて安な生活環境をもつくることができたはずである。しかし、人間は落によって心が暗くなり、被造物にする的な主管性を失って、動物のように、感の鈍い未開人に零落してしまったので、被造物にする外的な主管性までも失うようになったのである。しかし、人間は神の復帰摂理によって、心が明るくなるにい、被造物にする的な主管性が復されてきたので、それに伴い、被造物にする外的な主管性も、漸次復されてきて、現代ともなると科達も最高度に達し得たのである。そして、科達に伴う経済発展によって、現代人は極度に安な生活環境をつくるようになった。このように、落人間が被造世界にする主管性を復するにい、神の第三祝福が復されていく現象を見るとき、我は、現代が終末であることを否定することができないのである。
今まで幾度か言及したように、文化展においても、一つの宗を中心として一つの世界的な文化を形成しているのであり、家形態においても、一つの世界的な主機構を指向して、際連盟から際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまでこぎつけてきているのである。そればかりでなく、経済展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に達した交通機と通信機は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のようにき、また、行きできるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、の兄弟愛は生まれてくるのである。したがって、今や人類の親であるイエスだけが再臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家欒して生活し得るようになっているのである。このような事を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。
こうして流れてきた史が人類にえるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。

 

第五節 終末と新しいみ言と我の姿勢

(一)終末と新しい
(二)終末に際して我がとるべき態度

 

(一)終末と新しい
落人間は宗により理をもって(ヨハネ四23)その心と知能とをよみがえらせ、その的な無知を打開していくのである。さらに、理においても、的な無知を打開する宗による理と、外的な無知を打開する科による外的理との二つの面がある。したがって知能においても、理によって開される的知能と、外的理によって開される外的知能との二つの面がある。それゆえに、的知能は理を探りだして宗を起こし、外的知能は外的理を探りだして科を究明していくのである。神は無形世界にする事が、的五官によって人体に的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感器官を通して認識されるのである。したがって認識も、面の過程をてなされる。人間は人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、的過程による神と肉的過程による理とが完全に調和され、心と知能とが共に開されることによって、この二つの過程をてきた面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界にする完全な認識をもつようになるのである。このように神は、落によって無知にった人間を、神理とにより、心と知能とを共に開せしめることによって、創造本然の人間に復していく理をされるのである。
人間は神のこのような復帰摂理の時代的な恩を受け、その心と知能の程度が、史の流れにって漸次高まっていくのであるから、それを開するための神理もまた、その程度を高めていかなければならない。それゆえに、理とは唯一であり、また永遠不のものであるけれども、無知の態から、次第に復されていく人間に、それをえるための範、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代にって異ならざるを得ないのである。例をげれば、人間がいまだ蒙昧にして、理を直接受け入れることができなかった約前の時代においては、理の代わりに、供え物をささげるように理されたのであり、そして人間の心と知能の程度が高まるにって、モセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。その際、イエスは、そのみ言を理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ一四6)。そのは、イエスのみ言はどこまでも理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける象によって、その範と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。このような意味からして、聖書の文字は理を表現する一つの方法であって、理それ自体ではないということを、我は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から二〇〇〇年前、心と知能の程度が非常に低かった時の人間たちに理をえるために下さった、一つの過渡的な科書であったということを、我は知ることができるのである。それゆえに、その時の人間たちを開するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象的な表現方法そのままをもって、現代の科的な文明人たちの理への欲求を、完全に足させるということは不可能なことだといわなければならない。
したがって、今日の知性人たちに理を理解させるためには、より高次の容と、科的な表現方法によらなければならないのである。これを我は新しい理という。そしてこの新しい理は、序において論じたように、人間の面の無知を打開するために、宗と科とを一つの統一された課題として、完全に解決し得るものでなければならない。
それでは新しい理が出現しなければならない理由を、また他の方面から考察してみることにしよう。
前にも述べたように、聖書はそれ自体が理なのではなく、理をえるための科書である。けれどもこの科書は、その理の重要な部分が、ほとんど象と比喩によって表現されている。したがって、それを解する方法においても、人により各差異があるので、その差異によって多くの派が派生してくるのである。ゆえに、派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争継続して大されるほかはない。したがって、新しい理が出現して、象と比喩で表現されている聖書の根本容を、だれもが公認し得るように解明しない限り、派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、したがって、キリストの統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。それゆえに、イエスは「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時がるであろう」(ヨハネ一六25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい理のみ言を下さることを約束されたのである。
イエスは「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三12) と話されたみ言のとおり、ユダヤ人たちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。そればかりでなく、イエスは弟子た ちにまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。
しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密としてされるのではなく、理の御る時には、あなたがたをあらゆる理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六13)といて言われたように、そのみ言は必ず聖により、新しい理としてえてくださるようになっているのである。
そして「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、物があるのを見た。その側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった」(1)と記されているその物に、イエスが我えようとされたそのみ言が、封印されているのである。いて聖書に記されているみ言を見れば、天にも地にも地の下にも、この物を開いて、それを見るにふさわしい者が一人もいなかったので、ヨハネが激しく泣いていると「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その物を開き七つの封印を解くことができる」(3~5)と言われているのである。ここにおいて、ダビデの若枝として誕生した獅子と記されているのは、とりもなおさず、キリストを意味するのである。このようにキリストが人類の前で、長らく七つの印をもって封じ、秘密としてされていたそのみ言の封印を開き、信徒たちに新しい理のみ言としてえてくださるときが到しなければならないので「あなたは、もう一度、多くの民族、民、語、王たちについて、預言せねばならない」(〇・11)と言われたのであった。それゆえにまた「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしのをすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしのを注ごう。そして彼らも預言をするであろう」(使徒二1718)とも言われたのである。このようにどの方面から見ても、終末においては必ず、新しい理が出現しなければならないのである。

(二)終末に際して我がとるべき態度
帰摂史の流れを見ると、古いものが終わろうとするとき、新しいものが始まるということを、我見することができる。したがって、古いものの終わる点が、すなわち新しいものの始まる点ともなるのである。それゆえに、古い史の終末期が、すなわち新しい史の創始期ということになるのである。そして、このような時期は同じ点から出して、各その目的を異にし、世界的なを結ぶようになった善ととの二つの主が、互いに交差する時期となるのである。ゆえにこの時代にした人間たちは、的には理念と思想の欠乏によって、不安と恐怖と混沌の中に落ちこむようになり、外的には武器による軋轢と闘争の中で慄するようになる。したがって、終末においてはとが敵し、民族と民族とが相い、家族たちが互いにいあうであろう(マタイ二四4~9)と聖書に記されているとおり、あらゆる悲な現象が際に現れるに違いない。
終末において、このような惨状が起こるのは、算して善主を立てようとすれば、どうしても起こらざるを得ない必然的な現象であるからで、神はこのような惨状の中で、新しい時代をつくるために、善主の中心を必ず立てられるのである。ノア、アブラハム、モセ、そしてイエスのような人は、みなそのような新しい時代の中心として立てられた人であった。それゆえに、このような史的な換期において、神が願うところの新しい史の同者となるためには、神が立てられた新しい史の中心がどこにあるかということを、探しださなければならないのである。
このような新しい時代の理は、古い時代を完全に算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代にしては、あくまでも立的なものとして現れる。したがって、この理は古い時代の因習にっている人には、なかなか納得ができないのである。新しい時代の理を担してきた聖賢たちが、みなその時代の牲者となってしまった理由は、まさしくここにあったのである。その例として、いまだ約時代の終末期であったときに、新約時代の新しい理の中心としてられたイエスは、約律法主義者たちにとっては、理解することのできない異端者の姿をもって現れたので、ついにユダヤ人たちの排斥を受けて殺害されてしまったのである。イエスが、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(ルカ五38)と言われた理由もまたここにあったのである。
今や、イエスが再び新約時代の終末期において、新しい天と新しい地のために、新しい理の中心としてられ、新しい時代の建設のために(二一1~7)新しい理を下さるであろう。それゆえに、イエスが初臨のときに、ユダヤ人たちからベルゼブル(悪霊のかしら)のり移った人間として、排斥されたように(マタイ一二24)、再臨のときにおいても、必ずや再びキリスト信徒たちの排斥を受けるに相違ないのである。ゆえに、イエスは将来再臨なされば、自分が多くの苦難を受け、その時代の人から見捨てられるであろうと預言されたのである(ルカ一七25)。したがって、史の換期において、古い時代の環境にそのまま執着し、平安を維持しようとする人は、古い時代と共に審判を受けてしまうのである。
落した人間は神する感性が非常に鈍いために、大抵は理面に重きをおいて復帰摂理路程をんでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代のに執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい理の時代へと換していても、彼らはこの新しい時代の理にたやすく感してついてくることが難しいのである。約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスにって新約時代の理にじることができなかったという史は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。しかし、祈りをもって神的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の理を、心的に知ることができるので、古い時代の理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神によって新しい時代の理にじることができるのである。それゆえに、イエスにった弟子たちの中には、約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感してくる神った人だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神を感得して、心では新しい時代の理におうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい理に接することができないからである。それゆえに、神的にこのような態にしている信徒たちが、彼らを新しい時代の理へと導くことができる新しい理を聞くようになれば、神理が、同時に彼らの心と知能を開させて、新しい時代にする神の理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉にくせない喜びをもってそれにじることができるのである。したがって、終末にしている現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な念にとらわれず、我は我の体を神に呼させることによって、新しい時代の理へと導いてくれる新しい理を探し求めなければならない。そして探しだしたその理が、果たして自分の体ので神と一つになり、の天的な喜びを、心の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。このようにすることによってのみ、終末の信徒たちは、の救いの道をたどっていくことができるのである。