第五章 復活論

第一節 復活

第二節 復活

第三節 再臨復活による宗統一

聖書の預言を、文字どおりそのまま受け入れるとすれば、イエスが再臨されるときには、に土の中に葬られて、元素化されてしまったすべての信徒たちの肉身が、再び元どおりの姿によみがえって、出てくるものと見なければならない(テサロニケ16、マタイ二七52)。これは、神が下さったみ言であるから、我の信仰的な立場においては、そのまま受け入れなければならない。しかし、これは現代人の理性では到底納得できない事である。そのため結局我の信仰生活に大きな混をきたすようになる。したがって、この問題の容を解明するということは、極めて重要なことであるといわなければならない。

 

 

第一節 復活

(一)死と生にする聖書的
(二)落による死
(三)復活の意義
(四)復活は人間にいかなる化を起こすか

 

復活というのは、再び活きるという意味である。再び活きるというのは、死んだからである。そこで、我が復活の意義を知るためには、まず、死と生にする聖書的な念をはっきり知らなければならないのである。

(一)死と生にする聖書的
ルカ福音書九章60節の記を見れば、父親の葬式のために自分の家へろうとする弟子に、イエスは死人を葬ることは、死人に任せておくがよいと言われた。我はこのイエスのみ言の中で、死と生にして互いにその意義を異にする二つの念があるということを知ることができる。第一は、葬られなければならない、その弟子の父親のように、肉身の寿命が切れた「死」にする生死の念である。このような死にする生は、その肉身が生理的な機能を維持している態を意味する。第二は、その死んだ父親の葬式をするために、集まって活動している人たちを指摘していう「死」にする生死の念である。それではどうしてイエスは、現在その肉身を動かしている人たちを指摘して、死んだ人と言われたのだろうか。それは彼らがイエスに逆らって、神の愛から離れた位置、すなわちサタンの主管圏内にとどまっていたからである。ゆえに、この死は肉身の寿命が切れる死を意味するのではなく、神の愛のを離れて、サタンの主管圏内に落ちこんだことを意味する死のことなのである。したがって、このような「死」にする「生」の意義は、神の愛の主管圏内において、神のみ言のとおりに活動している態をいうのである。それゆえに、いくらその肉身が活動しているといっても、それが神の主管を離れて、サタンの主管圏内にとどまっているならば、彼は創造本然の値基準から見て、死んだ人であるといわなければならない。これは、三章1節に記されているように、不信仰的なサルデスにある教会の信徒たちに、「あなたは、生きているというのは名だけで、は死んでいる」と言われたのを見ても分かる。その反面、に、肉身の寿命が切れた人間であっても、その人体が、界において、神の愛の主管圏内にいるならば、彼はあくまでも、生きている人である。イエスが、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ一一25)と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その人体は依然として神の主管圏内にいるので、彼は生きている者であるという意味である。イエスは、またけ て、「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言われた。このみ言は、イエスを信じる者は、地上で永遠に 死なずに生きるという意味ではなく、肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく、後日死んで肉身をぎ地上を離れるとしても、彼の人体は、永遠に神の愛ので、依然として生きつづけるはずであるから、したがって、永遠に死なないという意味で言われたのである。ゆえに、上記の聖句にあるイエスのみ言は、人間の肉身の寿命が切れることを意味する死は、我の永遠なる命には何らの影響をも及ぼさない、という意味で言われたみ言である。
また、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」と言われた、ルカ福音書一七章33節のみ言も、肉身を保存するために神のみ旨に背く者は、いくらその肉身が活動していても、彼は死んだ者であり、また、これと反に神のみ旨のために肉身を牲にする者は、仮にその肉身は土の中に葬られて腐ってしまったとしても、その人体は神の愛に抱かれて永存できるのであるから、彼はすなわち、生きている者であるという意味である。

(二)落による死
は上述のごとく、互いにその意義を異にする二つの死があるということを知った。では、そのうちのいずれが、人間始祖の落によってもたらされた死なのだろうか。
神は本、人間が落しなくても、老衰すればその肉身は土にるように創造されたのである。だから、アダムが九三〇歳で死んで、その肉身は土にったけれども、これはどこまでも落に起因する死ではなかった。なぜなら、創造原理によれば、肉身は人体の衣ともいえる部分で、衣服が汚れればぎ捨てるように、肉身も老衰すればそれをいで、その人体だけが無形世界に行って、永遠に生きるように創造されたからである。物質からなる生物体の中で永遠性をもつものは一つもない。それゆえに、人間もこの創造原理を免れ得ないので、人間の肉身といえども、永存することはできないのである。もしも人間が地上で肉身のまま永存するとすれば、人体の行くべき所である無形世界は、最初から創造される必要もなかったはずである。、無形世界は落した人間の人体が行ってとどまるために、人間が落した以後に創造されたものではなく、に、人間が創造される前に、創造目的を完成した人間たちが、地上で生活したのち、肉身をいだ人体が行って、永遠に生きる所として創造されているということを知らなければならない。
落人間が、肉的な命にい未練をもつようになったのは、人間が元、肉身をいだあとには、地上よりも一層美しく、かつ永遠なる無形世界に行って、永遠に生きるように創造されているという事が、落によって分からなくなったからである。地上における肉身生活と、無形世界における人生活との係は、虫と蝶の生活に比較することができる。もし、土の中にある虫に意識があるとすれば、ちょうど人間が肉身生活にして愛着を感じているように、それもやはり土の中の生活に愛着を感じて、虫として永存することを欲するであろう。ところがこれは、虫がいったんいで蝶となり、香りの良い花や甘い蜜を自由に味わうことができる、また一つの新しい世界があることを知らなかったからであろう。地上人と人の係は、正にこの虫と蝶との係に似ている。もしも人間が落しなかったならば、地上人たちは、同じ地上人同士との係のように、人たちとも自由にうことができるので、肉身をぐことが、決して永遠の別れではないことがよく分かるのである。そればかりでなく、人間が地上で完成して生活したのち、老衰して肉身をいで行く人の世界が、いかに美しく幸福な世界であるかということをはっきり知れば、かえって、肉身をいでその世界に行かれる日を慕い、待ち望むことであろう。
このように、上述した二つの死の中で、肉身の寿命が切れるという意味での死が、落による死ではないということが分かれば、サタンの主管圏内に落ちるという意味での死が、まさしく落による死であるという結論になる。はこの問題を、聖書を中心として、もっと詳しく討してみることにしよう。
落による死とは、すなわち、人間始祖が善の果を取って食べることによって招した、正にその死を意味するのである。ところで、その死は、いかなる死であったのだろうか。創世記二章17節(文語)を見れば、神がアダムとエバを創造されたのち、彼らに善の果について「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」と言われた。それゆえに、神が言われたとおりに、彼らは取って食べたその「日」を期して、必ず死んだと見なければならない。しかしながら、その死んだアダムとエバは今日の我と同じく、依然として地上で肉身生活をけながら、子孫を生み殖やして、ついには、今日の落した人類社を形成するまでになったのである。このような事から見て、落によって招したその死は、肉身の寿命が切れて死ぬことを意味するのではなく、神の善の主管から、サタンの主管に落ちるという意味での死をいうのであることを、我は明確に知ることができる。は聖書でこれにする例をげてみることにしよう。ヨハネ三 章14節に、「愛さない者は、死のうちにとどまっている」と言われた。ここでいう愛とは、もちろん神の愛を意味するのである。神の愛の中で、隣人を愛する ことを知らない者は、いくら地上で生活をしているといっても、彼はあくまでも死んだ者であるという意味である。これと同じ意味で、ロマ書六章23節には、「罪の支う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリストイエスにおける永遠のいのちである」と言われ、また、ロマ書八章6節には、「肉の思いは死であるが、の思いは、いのちと平安とである」と記されているのである。

(三)復活の意義
はこれまで、人間の寿命が切れて、その肉身の土にることが、落からきた死であるとばかり考えていた。したがって、このような死から再び生きることが、聖書の意味する復活であると解してきたので、に他界した信徒たちの復活は、すなわち土に分解されてしまったその肉身が、再び原どおりによみがえることによって成就されるものと信じていた。しかし、創造原理によれば、このような死は、人間始祖の落によって招されたものではなく、本、人間は老衰すれば、その肉身は自然に土にるように創造されているので、いったん土に分解されてしまった肉身が、再び原どおり復活することは不可能であるばかりでなく、界に行って永遠に生きるようになった人体が、再び肉身をとる必要もないのである。ゆえに、復活は人間が落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善にわるとすれば、我はそれだけ復活したことになる。
聖書で、復活にする例をげてみれば、ヨハネ福音書五章24節に「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と記されている。これは、イエスを信じることによって、サタンのから離れ、神の愛のに移ることが、すなわち復活であるということを意味するみ言である。また、コリント一五章22節には、「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」と記されているが、これは、アダムによってサタンの血統を受けぐようになったのが死亡であり、この死亡からキリストによって天の血統に移されることが、復活であるということを意味するみ言である。

(四)復活は人間にいかなる化を起こすか
の果を取って食べる日には、きっと死ぬであろう(創二17)と言われた神のみ言どおりに、善の果を取って食べて落したアダムとエバが、死んだのは事であった。しかし、彼らには、外形的には何らの異も起こらなかったのである。わったことがあるとすれば、不安と恐怖によって、瞬間的に彼らの顔色がわる程度であっただろう。ゆえに、落した人間が善の果を取って食べた以前の人間に復活するとしても、その外形上には何らの化も起こらない。により重生した人間は、重生する以前と比べて、確かに復活した人間には違いない。しかし今、彼と強盗とを比較すれば、一人は天の人間として、ある程度まで復活した立場におり、また一人は、地獄に行くべき人間として、死んだ立場にいるが、彼らの外形には何らの差異も認められないのである。に例証したように、イエスのみ言にって、神を信じる者は、死から命へと移されて、復活させられたのは事である。しかし、彼がイエスを信じる前の死の態にいるときも、イエスを信じて命に移されることによって復活したのちにも、彼の肉身上には、何らの化も起こらないのである。
イエスは創造目的を完成した人間としてられたことは事である(キリスト論照)が、外形から見たイエスは落人間と比べて何の差異もなかった。もし、彼にわったところがあるとすれば、時の側近者たちが、彼を信じわないはずがなかったのである。人間は復活により、サタンの主管からけだして、神と心情一体となれば、神性をもつようになる。このように、落人間が復活によって、神の主管を受けるようになれば、必然的に、その心化を起こすようになるのである。このような心化によって、人間の肉身もサタンの住まいから神の宮へと、事上聖化されていくのである。このような意味において、肉身も復活されると見ることができる。これはちょうどいことをするために使用されてきた建物が、神の聖殿として使用されるようになれば、その建物の外形には何らの化もないが、それは、に聖なる建物に化しているというのと同じ理論である。

 

第二節 復活

(一)復活理はいかになされるか
(二)地上人にする復活
(三)人にする復活
(四)再臨復活から見た輪廻

 

(一)復活理はいかになされるか
復活は、落人間が創造本然の姿に復する過程的な現象を意味するので、復活理は、すなわち、復帰摂理を意味する。復帰摂理はすなわち、再創造理なので、復活理はまた再創造理でもある。したがって、復活理も、創造原理によって、次のように理されるのである。第一に、復活理の史において、その使命的な責任をもった人物たちが、たとえ彼ら自身の責任分担を完遂できなかったとしても、彼らは天のみ旨のために忠誠をくしたので、それだけ落人間が、神と心情的な因を結ぶことができる基盤をめてきたのである。したがって、後世の人間たちは、史の流れにい、それ以前の預言者や義人が築きあげた心情的な基台によって、復帰摂理の時代的な恵沢をもっと受けるようになるのである。したがって、復活理は、このような時代的な恵沢の上に立ってなされるのである。第二に、創造原理によれば、神の責任分担として創造された人間は、それ自身の責任分担として神からえられたみ言を信じ実践するとき、初めて完成されるように創造されたのである。それゆえに、復活理をなさるにたっても、神の責任分担としての理のためのみ言がなければならないし、また、落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。第三には、創造原理に照らしてみると、人間の人体は、肉身を基盤にしてのみ成長し完成するように創造されている。したがって、帰摂理による人体の復活も、これまた地上の肉身生活を通じて、初めて成就されるようになっている。第四に、人間は創造原理にい、成長期間の秩序的な三段階をて完成するように創造された。それゆえに、落人間にする復活理も、その理期間の秩序的な三段階をて完成されるようになっている。

(二)地上人にする復活
(1)復活基台
神は、アダムの家庭から復活理を始められたのである。しかし、そのみ旨に仕える人物たちが、責任分担を完遂できなかったためその理は延長されてきたが、二〇〇〇年後に、信仰の祖アブラハムを立てて、初めてその理が始まった。したがって、アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、結果的には次の時代に入って、復活理ができるその基台を造成した時代となった。ゆえに、この時代を復活基台理時代とするのである。

(2)蘇生復活
復活理が始まったアブラハムのときからイエスまでの二〇〇〇年期間に、蘇生復活理がなされてきた。したがって、この時代を蘇生復活理時代とする。この時代におけるすべての地上人は、神の蘇生復活理による時代的な恵沢を受けることができたのである。蘇生復活理は、神がこの時代の理のために下さった約のみ言を人間が信じて実践することによって、その責任分担を成し遂げ、義を立てるように理されてきたのである。ゆえに、この時代を行義時代ともいう。この時代における人間は、律法を遵守することによって、その人体が肉身を土台に蘇生復活して、形体を完成したのである。地上で形体を完成した人間は、肉身をげば、その人体は形体級の界に行って生きるようになるのである。

(3)長成復活
イエスの十字架の死によって、復活理は完成されずに、再臨期まで延長されてきた。このように延長された二〇〇〇年期間は、的救いによって、長成復活理をしてきた時代であるので、この時代を長成復活理時代とする。この時代におけるすべての地上人は、神の長成復活理による時代的な恵沢を受けられるのである。そして長成復活理は、神がこの時代の理のために下さった新約のみ言を、人間が信じることによって、その責任分担を完成し、義を立てるように理された。ゆえに、この時代を信義時代ともいう。
この時代における人間は、福音を信ずることにより、その人体が肉身を土台として長成復活して、生命体を完成するのである。このように地上で生命体級の人体を完成した人間は、肉身をいだのちに、生命体級の界である園に行って生きるようになる。

(4)完成復活
再臨されるイエスによって、肉共に復活して復活理を完成する時代を完成復活理時代とする。この時代におけるすべての地上人は、完成復活理による時代的な恵沢を受けることができる。再臨主は、約と新約のみ言を完成するための、新しいみ言をもってこられる方である(前編第三章第五節(一))。ゆえに、完成復活理は、新約を完成するために下さる新しいみ言(これは、成約のみ言であるというのが妥であろう)を、人間たちが信じ、直接、主に侍ってその責任分担を完遂し、義を立てるように理なさるのである。それゆえに、この時代を侍義時代ともいう。この時代における人間は再臨主を信じ侍って、肉共に完全に復活され、その人体は生体級を完成するようになる。このように地上で生体を完成した人間が生活する所を地上天という。そして、地上天で生活して完成した人間が肉身をげば、生体の人として、生体級の界である天上天に行って生きるようになるのである。

(5)
今までのキリスト信徒たちは、原理を知らなかったので、園と天とを混同してきた。イエスがメシヤとして地上に降臨された目的が完成されたならば、そのとき、に地上天は完成されたはずである。この地上天で生活して完成した人間たちが、肉身をいで生体を完成した人体として界に行ったならば、天上天もそのときに完成されたはずである。けれども、イエスの十字架の死によって、地上天現できなかったので、地上で生体を完成した人間は一人も現れなかった。したがって、今日まで生体の人たちが生活できるように創造された天上天に入った人は一人もいない。ゆえに、天上天はまだ空いている。これはすなわち、その住民となるべき人間を中心として見れば、まだ天上天が完成されなかったことにもなる。それでは、どうしてイエスは、自分を信じれば天に入ると言われたのだろうか。それは、イエスが地上にられた本の目的が、あくまでも、天を完成することにあったからである。しかし、イエスはユダヤ人の不信によって、地上天現することができずに、十字架で亡くなられたのである。時のすべての人間が、最後までだれも信じてくれなかった中で、自分を信じてくれた、たった一人の十字架の同伴者であった強盗に、イエスは共に園に入ることを許されたのである(ルカ二三43)。結局、イエスはメシヤとしての使命を成し遂げようとする希望をもつことのできた過程においては、天に入ることを調されたが、このみ旨を成就できずに行かれる十字架の死に臨んでは、園に入らなければならない事を表明されたのである。園はこのように地上でイエスを信じて、生命体級の人体を完成し、肉身をいで行った人たちが、天の門が開かれるまでとどまっている界をいうのである。

(6)終末に起こる的現象
長成期完成級で落した人間が、復帰摂理により、蘇生約時代をて、長成新約時代の完成級まで復されて、人間始祖が落する前の立場にる時代を終末という。この時代は、アダムとエバが落する直前、神と一問一答したそのときを、世界的に復する時代であるので、地上には通する人が多く現れるようになる。終末には、神のをすべての人に注ぐと約束されたことは(使徒二17)、正に、このような原理的な根によって、初めてその理由が解明できるのである。
終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れる。しばしば、このような人たちは、自分が再臨主であると考えて、正しい道を探していくことのできない場合が多いが、その理由はどこにあるのだろうか。本、神は人間を創造されて、彼に被造世界を主管する主になれと祝福された(創一28)。ところが、人間は落によって、このような神の祝福を成し遂げることができなかったのである。しかし、落人間が復帰摂理によって、長成期の完成級まで的に復されて、アダムとエバが落する直前の立場と同一の心基準に達すれば、神が彼らに被造世界の主になれと祝福なさった、その立場を復したという意味から、「あなたは主である」という啓示を下さるのである。
終末に入って、このように、「主」という啓示を受ける程度に、信仰が篤な聖徒たちは、イエスの時に、主の道をまっすぐにするための使命をもってきた洗ヨハネと、同一の立場に立つようになる(ヨハネ一23)。したがって、彼らにも各自が受けもった使命分野において、再臨されるイエスの道を直くすべき使命がえられているのである。このような意味において、彼らは各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた聖徒たちなので、彼らにも、「主」という啓示を授けてくださるのである。
通者が、「あなたは主である」という啓示を受けたとき、このような原理的な事情を知らずに、自分が再臨主だと思って行動すれば、彼は必ず、キリストの立場に立つようになる。終末に、キリストが多く現れると預言された理由もここにある。通者はみな、各自通じている界の階位と啓示の容がお互いに異なるために(コリント一五41)、相互間の衝突と混るのが普通である。通者は、事上、みな同一の界を探し求めていくけれども、これにする各自の環境、位置、特性、知能、心程度などが相異なるために各自に現れる界も、各異なる相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
帰摂理のみ旨に侍っている人たちは、各々摂理の部分的な使命を担して、神と的な係だけを結んでいるので、他の通者との的な係が分からなくなるのである。したがって、各自が侍っている天のみ旨が、各異なるもののように考えられ、互いに衝突を起こすようになる。なお、神は各自をして復帰摂理の目的を達成させるにたって、彼らが各自最善をくすように激なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるので、的な衝突を免れなくなる。また、彼が担した部分的な使命分野においては、事上、彼が一番であるために、このような啓示を下さることもある。
また、篤な信仰者たちが、アダムとエバの落直前の心基準まで成長して通すれば、アダムとエバが克服できずに落したのと同じ試練によって、落しやすい立場にるようになる。したがって、原理を知らない限り、このような立場を克服することは、非常に難しいことなのである。今日に至るまで、多くの修道者たちが、この試練の峠を克服できずに、長い間修道した功績を一朝一夕に台無しにしたことは、に惜しんでもあまりあることである。
では、通者のこのような混を、いかにすれば防ぐことができるだろうか。神は、復帰摂理の目的を早く完遂されるために、その理の過程において、部分的な使命を多くの人たちに分担させ、その各個体と的にだけ対応してこられたので、上述のように、すべての通者たちは、相互間に的な衝突を免れ難くなっている。しかし結局、史の終末期に至れば、彼らは各自の使命がみな復帰摂理の同一の目的のために、神から分担させられていたことを共に悟って、お互いに的な係を結び、一つに結合して、復帰摂理の全体的な目的を完成させる新しい理のみ言を賜るようになる。そのときすべての通者は、自分のものだけが神のみ旨であるとの主張を捨て、より高次元的で、全体的な理のみ言の前に出て、自分自身の理的な使命と位置を正しく悟ることにより、そこで初めて、的な衝突から起こった過去のすべての混を克服することができるし、またそれと同時に、各自がいてきた信仰路程にする有終の美を結ぶこともできるのである。

(7)最初の復活
「最初の復活」というのは、神の復帰摂理の史が始まって以、再臨理によって、初めて人間が原罪をいで、創造本然の自我を復し、創造目的を完成させる復活をいうのである。
したがって、すべてのキリスト信徒たちの唯一の望みは、最初の復活に参与することにある。では、どんな人たちがここに参与できるのだろうか。再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減件を立てる聖業に協助して、すべての人間に先立って原罪をぎ、生体級の人体を完成し、創造目的を完成した人たちがここに参与できるようになるのである。
また、聖書に表示された十四万四千人とは何を意味するのであろうか。その事について調べてみることにしよう。イエスが再臨されて、復帰摂理を完遂なさるためには、復帰摂理路程において、天のみ旨を信奉してきながらも、自分の責任分担を果たせなかったために、サタンの侵入を受けたすべての聖賢たちの立場を蕩減復できる代理者たちを、再臨主がその一代において的に探し立て、サタン世界にする勝利の基台を立てなければならない。このような目的で、再臨主が降臨されて立てられる信徒の全体が、正に一四章1節から4節までと、七章4節に記されている十四万四千の群れなのである。
神の復帰摂理路程において、家庭復の使命者であったヤコブは、十二の子息を中心として出し、民族復のために出したモセは、十二部族を率いたが、この各部族が再び十二部族型にえれば、一四四になる。世界復の使命者としてられたイエスは、肉共に、この一四四を蕩減復するために十二弟子を立てられたが、十字架につけられたので、的にのみこれを蕩減復してこられたのである。ゆえに、サタンに奪われたノアからヤコブまでの的な十二代を、的に蕩減復するため、ヤコブが十二子息を立てたように、再臨主は初臨以後、的にのみ一四四部族型を立ててきた的な理路程を、肉共に的に、一時に蕩減復されるため、一四四に該する一定の必要の信徒たちを探し立てなければならないのである。

(三)人にする復活
(1)人たちが再臨復活する理由とその方法
創造原理によれば、人間の人体は神から受ける生素と、肉身から供給される生力要素との授受作用によってのみ成長するように創造された。それゆえに、人体は肉身を離れては成長することも、また復活することもできない。したがって、地上の肉身生活において、完成されずに他界した人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである。ユダ書14節に、終わりの日に、主は無の聖徒たちを率いてられると言われた理由はここにある。
では、人たちはどんな方法で地上人にして、み旨を完成するように協助するのだろうか。地上の聖徒たちが祈や、その他の的な活動をするうちに、人たちの相になれば、その人たちは再臨して、その地上人たちの人体と相基準を造成していろいろの業をするようになる。そして、その人たちは地上人たちに火を受けさせたり、病を治させるなど、いろいろの能力を現させるのである。それだけでなく、入神態に入って、界の事を見せたり、聞かせたり、あるいは、啓示と示によって預言をさせ、その心に感銘をえるなど、いろいろの方面にわたる聖の代理をすることによって、地上人がみ旨を成し遂げていくよう協助するのである。

(2)キリストを信じて他界した人たちの再臨復活
①長成再臨復活
地上で律法を遵守し、神を熱心に信奉して行った約時代の形体級の人は、メシヤ降臨後に全部地上に再臨して、地上の聖徒たちをしてみ旨を成就せしめ、生命体級の人体として完成されるように協助した。このように、再臨協助したその人たちも、彼らの協助を受けた地上の聖徒たちと同じような恵沢を受け、共に生命体を完成して園に入るようになる。我はこれを長成再臨復活とする。
これにする例を聖書の中でげてみることにしよう。マタイ福音書一七章3節に、エリヤが人体としてイエスとその弟子の前に現れた記があるのを見れば、エリヤがそのまま界にいるということは確である。しかるに、マタイ福音書一七章12節を見れば、イエスは地上で生活している洗ヨハネを指して、エリヤであると言われた。イエスがこのように言われた理由は、エリヤが洗ヨハネに再臨して、彼をして、自分が地上で完成されなかった使命まで代理に完成するように協助して、再臨復活の目的達成をさせようとしていたので、使命的に見れば、洗ヨハネの肉身は、正に、エリヤの肉身の身代わりともなるからである。
マタイ福音書二七章52節を見れば、イエスが十字架で亡くなられるとき、墓が開け、眠っていた多くの聖徒たちの死体が生き返ったと記されている。これは、土の中でに腐ってなくなってしまった彼らの肉身が、再び原どおりに肉身をとって生き返ったことをいうのではない。それは、どこまでも形体級の人体として、界にとどまっていた約時代の人たちが、イエスの十字架の贖罪の恵沢圏内における地上の聖徒たちを、生命体として完成できるように協助することによって、彼らの能力を受け、自分たちも共に生命体を完成するために、的に再臨したのを見て記したにすぎない。もしも、聖書の文字どおりに、約時代の人たちが墓の中から肉身をとって、再び生き返ったとすれば、彼らは必ず、イエスがメシヤである事を証したはずである。墓の中から生き返った信徒たちが証すイエスを、メシヤとして信じないユダヤ人がどこにいるだろうか。このような聖徒たちにする行跡は、必ず聖書の記ったであろうし、また今も地上に住んでいるはずである。しかし、彼らが墓の中から生き返ったという事以外には、何の記っていない。これから推してみても、墓の中からよみがえったと記されているその聖徒たちは、眼が開けた信徒たちだけが、しばらくの間だけ見ることのできた、人たちの現象であったことが分かるのである。イエスの十字架の贖罪によって行くことのできる園に比較すれば、約時代の人たちがとどまっていた所は、より暗くつらい世界であるので、これを墓と言ったのである。

②完成再臨復活
新約時代に、地上でイエスを信じて園に行った生命体級の人たちは、メシヤが再臨されたのち、全部地上に再臨するようになる。その人たちは、地上の聖徒たちをして、再臨されたイエスを信奉して生体級の人体を完成するように協助することによって、彼らも同恵沢を受けて、生体を完成するようになるのである。そして、この地上の聖徒たちが肉身をいで天に入るときには、その人たちも彼らと共に天に入るようになるのである。このような復活理を完成再臨復活理とする。このような理において見るとき、人たちが地上人たちを協助することはいうまでもなく、結果的に見て、地上人たちも人たちの復活理のために協助するのだということも、我はまた理解することができる。
ヘブル書一一章39節以下に「さて、これらの人約時代の聖賢たち)はみな、信仰によってあかしされたが、約束(天に入る許可)のものは受けなかった。神はわたしたち(地上人)のために、さらに良いもの(天)をあらかじめ備えて下さっているので、わたしたち(地上人)をほかにしては彼ら(人たち)が全うされることはない」と記されているみ言は、結局、明した事証したものといえる。すなわち、この節は、界にいるすべての人たちは、地上人の協助を受けずには完成できない、という原理を証したものである。マタイ福音書一八章18節に記されている「あなたがた(地上の聖徒)が地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」と言われたみ言も、結局、地上の聖徒たちが解いてやらなければ、人たちにつながれたものが解かれないという事を証したのである。このように人たちは地上の聖徒たちに再臨して、協助してこそ復活できるようになっている。ゆえに、マタイ福音書一六章19節で見るように、天の門の鍵を、地上の聖徒たちの代表ペテロに授けて、彼をして天の門を地上で開くようにされたのである。

(3)園以外の人たちの再臨復活
まずキリスト以外の他宗を信じていた人たちは、いかにして再臨復活するか調べてみることにしよう。人間がある目的を共同に成し遂げるためには、必ずお互いに相基準を造成しなければならないように、地上の人間と人たちも、共同に復帰摂理のある目的を成就するためには、お互いに、相基準を造成しなければならない。それゆえに、復活のために再臨する人たちは、自分たちが地上で生存したとき信奉していたのと同じ宗を信じている地上人の中で、その象になれる信徒を選んで再臨するのである。そして、復帰摂理の目的が成就されるように彼らに協助して、彼らと同恵沢を受けるようになるのである。
第二に、地上で宗生活をしなかったが、良心的に生きた善良な人たちは、いかにして再臨復活するかということについて調べてみることにしよう。原罪をげなかった落人間の中には、絶的な善人はあり得ない。それゆえに、ここで善というのは、の性質よりも善の性質を少しでも多くもっている人たちをいうのである。このような善なる人たちは、地上の善人たちに再臨して、彼らをして神の復帰摂理の目的を成就せしめるように協助することによって、ついに彼らと同一の恵沢を受けるようになるのである。
第三に、悪霊人たちはいかにして再臨復活するのだろうか。マタイ福音書二五章41節に「魔とその使たち」という言葉がある。この使いは、正に魔の唆を受けて動く悪霊人体をいうのである。世にいわゆる幽という正体不明の的存在は、正に、このような悪霊人体をいうのである。ところで、このような悪霊たちも、やはり、再臨して時代的恵沢を受けるようになるのである。しかし、悪霊人たちの業が、みな再臨復活の恵沢を受けられるような結果をもたらすのではない。その業が、結果的に神の罰として、地上人の罪を算させるような蕩減件として立てられたときに、初めてその悪霊人たちは、再臨復活の恵沢を受けるようになるのである。それでは、悪霊の業がどんな具合に天を代理して、審判の行使を代理した結果をもたらすのだろうか。
ここに例を一つげてみることにしよう。復帰摂理の時代的な恵沢によって、家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏に移行される一人の地上人がいるとしよう。しかし、この人に自分自身、あるいはその祖先が犯したある罪がっているならば、それに該するある蕩減件を立ててその罪を算しなければ、種族的な恵沢圏に移ることができなくなっている。このとき、天は悪霊人をして、その罪にする罰として、この地上人に苦痛をえる業をなさしめる。このようなとき、地上人がその悪霊人のえる苦痛を甘受すれば、これを蕩減件として、彼は家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏に入ることができるのである。このとき、彼に苦痛をえた悪霊人も、それに該する恵沢を受けるようになる。このようにして、復帰摂理は、時代的な恵沢によって、家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏へ、なお一進んで民族的なものから、ついには世界的なものへと、だんだんその恵沢の範めていくのである。こうして、新しい時代的な恵沢圏に移るごとに、その理を担した人物は、必ずそれ自身とか、あるいはその祖先が犯した罪にする蕩減件を立てて、それを算しなければならないのである。また、このような悪霊の業によって、地上人の蕩減件を立てさせるとき、そこには次のような二つの方法がある。
第一に、悪霊人をして、直接その地上人に接しての業をさせて、その地上人が自ら算すべき罪にする蕩減件を立てていく方法である。第二には、その悪霊人がある地上人に直接くのと同じ程度の犯罪を行おうとする、他の地上の人に、その悪霊人を再臨させ、この人が体として、その地上人にの業をさせることによって、その地上人が自ら算すべき罪にする蕩減件を立てていく方法である。
このようなとき、その地上人が、この悪霊の業を然のこととして喜んで受け入れれば、彼は自分かあるいはその祖先が犯した罪にする蕩減件を立てることができるのであるから、その罪を算し、新しい時代の恵沢圏内に移ることができるのである。このようになれば、悪霊人の業は、天の代わりに地上人の罪にする審判の行使をした結果になるのである。それゆえに、その業によって、この悪霊人も、その地上人と同恵沢を受け、新しい時代の恵沢圏に入ることができるのである。

(四)再臨復活から見た輪廻
神の復帰摂理は、その全体的な目的を完成なさるために、各個体を召され、その各個体に適合した使命を分担させてこられた。そして、人間がこの使命を継続的に彼と同一の型の個体へと承しながら、悠久なる史の期間を通じて、その分担された使命分野を漸次完遂するように導かれたのである。
帰摂理は個人から出して、家庭と民族をて、世界を越え、天宙まで復していくのである。それゆえに、個人に任せられた使命は、たとえ部分的なものであっても、その型は個人型から始まって、家庭と民族と世界の各型へと、その範めてきたのである。聖書でその例をげれば、アブラハムは個人型または家庭型であり、モセは民族型であり、イエスは世界型であった。
ところで、地上で自分の使命を完成できずに去った人たちは、各自分たちが地上で受けもったのと同じ使命をもった同型の地上人に再臨して、そのみ旨が成就するように協助するのである。このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する人の使命までも代理に成し遂げるのである。ゆえに、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する人の肉身ともなるのである。このようになれば、その地上人は彼を協助している人の再臨者となるので、その地上人はしばしば彼を協助する人の名前で呼ばれるのである。このようなわけで、地上人はしばしば、人が輪廻生した体のように現れるようになるのである。聖書でこれにする例をげてみれば、洗ヨハネはエリヤの協助を受けて、彼の目的を立てていったので、彼はエリヤが地上にいるとき完成できなかった使命まで、みな完遂してやらなければならなかった。したがって、洗ヨハネの肉身は、エリヤの肉身の代理でもあったので、イエスは、洗ヨハネをエリヤであると言われた(本章第二節(三)(2))。
終末において、世界型の分担使命を受けもった地上人たちは、各過去に彼と同型の使命をもって、地上をて行ったすべての人の責任分担を、みな承して完遂すべき立場にいるのである。したがって、すべての人は地上人たちに再臨し、彼に協助することによって、彼らが地上にいるとき、完成できなかった使命を完遂させるのである。それゆえに、人たちの協助を受ける地上人は、彼に協助するすべての人たちの再臨者であり、したがって、その地上人はすべての人たちがよみがえったかのように見られるのである。終わりの日に、自分が再臨のイエス、弥勒迦、孔子、あるいはオリブの木、あるいは生命の木などと自する人たちが多く現れる理由はここにある。仏教で輪廻生を主張するようになったのは、このような再臨復活の原理を知らないで、ただ、その現れる結果だけを見て判したために生まれてきたのである。

 

第三節 再臨復活による宗統一

(一)再臨復活によるキリスト統一
(二)再臨復活による他のすべての宗の統一
(三)再臨復活による非宗人の統一

 

(一)再臨復活によるキリスト統一
に、本章第二節(三)(2)で詳述したように、園にとどまっている生命体級の人たちは、再臨されたイエスを信じ侍ることによって、生体級の人体を完成することのできる地上の信徒たちに再臨するのである。それから、彼らをして復帰摂理のみ旨を成し遂げるように協助して、彼らと同じ恵沢を受け、天に入るようになる。したがって、イエスの再臨期には、園にいるすべての人たちが共に地上の信徒たちに再臨して、彼らに協助する理をしなければならなくなるのである。
各個体の信仰態度と、彼がもっている天稟、また、み旨のために立てられた祖先の功績などにより、その時機は各異なるが、前節で明したような立場から、地上の信徒たちは、園にいる人たちの協助によって、再臨主の前に出て、み旨のために身せざるを得なくなるのである。ゆえに、キリストは自然に統一されるようになる。

(二)再臨復活による他のすべての宗の統一
に、終末論で論じたように、今まで同一の目的を指向してきたすべての宗が、一つのキリスト文化へ次第に吸されつつある史的事を、我は否定することができない。それゆえに、キリストはキリストだけのための宗ではなく、過去史上に現れたすべての宗の目的までも、共に成就しなければならない最終的な使命をもって現れた宗である。それゆえに、キリストの中心としてられる再臨主は、結局、仏教で再臨すると信じられている弥勒にもなるし、儒現するといって待ち望んでいる人にもなる。そして彼はまた、それ以外のすべての宗で、各彼らの前に現するだろうと信じられている、その中心存在ともなるのである。
このように、キリストで待ち望んでいる再臨のイエスは、他のすべての宗で再臨すると信じられているその中心人物でもあるので、他の宗を信じて他界した人たちも、彼がもっている的な位置にって、それに適する時機は各異なるが、再臨復活の恵沢を受けるために、園にいる人たちと同じく再臨しなければならない。そして、各自が地上にいたとき信じていた宗と同じ宗をもつ地上の信徒たちを、再臨されたイエスの前に導いて、彼を信じ侍らせることによって、み旨を完成するように、協助せざるを得なくなるのである。したがって、すべての宗は結局、キリストを中心として統一されるようになるのである。

(三)再臨復活による非宗人の統一
いかなる宗も信じないで、ただ、良心的に生活して他界した人たちも、再臨復活の恵沢を受けるために、各彼らに許されている時機に、みな地上に再臨するのである。そして、彼らも良心的な地上人をして、再臨主を信じ侍って、そのみ旨を完成するように協助するようになるのである。マタイ福音書二章2節以下の記によれば、イエスの誕生のとき、占星術者(東方博士)たちが、イエスを訪ねてきて敬して贈り物をささげたとあるが、これはこのような例にするものといえる。
神の復帰摂理の究極の目的は、全人類を救うところにある。ゆえに、神は各の罪を蕩減するのに必要な期間だけを過すれば、地獄までも完全に撤なさろうとするのである。もし、神の善の目的が完成された被造世界に、地獄が永遠にそのままっているとすれば、結果的に、神の創造理想や復帰摂理はいうまでもなく、神までも不完全な方になってしまうという、矛盾をきたすようになる。
落人間においても、その一人の子女でも不幸になれば、決して幸福になることができないのが、父母の心情である。まして、天の父母なる神が幸福になり給うことができようか。ペテロ三章9節を見れば、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたにしてながく忍耐しておられるのである」と記されている。したがって、神の願うみ旨のとおり、成就されるべき理想世界に、地獄が永遠なるものとしてることはできない。そしてマタイ福音書八章29節を見れば、イエスの時、直接サタンがイエスを神の子であると証したように、終末の日においても、ときが至れば、悪霊人たちまでも、各同級の地上の人たちに再臨して、彼らがみ旨のためになるように協助することによって、結局、悠久なる時間を過しながら、次第に創造目的を完成する方向へ統一されていくのである。